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第二番札所 紀三井寺
桜だよりは 紀三井寺から
べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり寺門高僧記  名神高速道路を吹田インターから近畿自動車道で松原ジャンクションへ。阪和自動車道にて和歌山インターを下り、宮街道を和歌山市内方向へ進む。快適な一時間半のドライブで第二番札所、紀三井寺に到着した。

 梅雨空を突き抜けるように眼前に迫る真っすぐな階段。二百三十段を一気に駆け上るべんべん・・・・・・。この参詣者泣かせの急坂を結縁坂と呼ぶらしいが、三井寺の若き広報僧、べんべんは苦も無く登ってしまう。この結縁坂には次のようないわれが伝えられている。江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年であった。

 ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお参りしていたところ、草履の鼻緒が切れてしまいます。困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘おかよでした。

 これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。のちに、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。

 紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来結縁坂と呼ばれるようになりました、と。商売繁盛、良縁成就は何事もまずは信心からである……。有名な紀伊国屋文左衛門、出世物語のくだりである。

 紀三井寺の境内には約五百本の桜の木が植えられている。特に京阪神では、早咲き桜の名所として有名で、開花宣言の目安となる和歌山地方気象台指定の標本木が本堂前にあることから「近畿地方に春を呼ぶ寺」として、三月も半ばとなるとマスコミ等の注目を集めることになる。

 「近畿地方で、一番に咲いてくれなくては困るんです」と、開花予想に一喜一憂する。桜になんの責任もないのだけれど、マスコミ対応が難しくってと副住職の前田泰道師。

 わが三井寺も春の桜が売りの寺、同じ名前を持つ寺同志、急に親近感を覚えるべんべんであった。

燦然と輝く黄金の十一面観音像
 紀三井寺、正式には金剛宝寺護国院という。しかし、紀三井寺のほうが圧倒的に有名である。山内には清浄水、楊柳水、吉祥水の三つの井戸があり、また大津のわが三井寺と混同を避けるため、地名の紀伊の紀を冠したといわれる。清らかな湧水は今もこんこんと湧き出ており「日本名水百選」にも選ばれている。

 寺伝によると、紀三井寺の草創は、奈良時代の宝亀元(七七〇)年、唐からやってきた為光上人が霊地を求めて行脚、名草山に霊光を見出し、その袋谷の老松の下において千手観音を感得、新たにみずから十一面観音を刻んで祀ったのが始まりという。為光上人は大般若経六百巻を書写して境内に埋納したとき、龍女が現れ、毎年七月九日には献灯を約束し、竜宮に招いた上人に七種の宝物を奉ったと伝えている。

 平安時代には寺名が巡礼記に見え、本尊をはじめ多くの平安時代の仏像を伝えていることからも寺の基盤がこの時期には確立されていたことがわかる。西国巡礼最古の記録である三井寺の行尊大僧正(一〇五五〜一一三五年)の巡礼記では、長谷寺を第一番、紀三井寺は第五番になっているが、同じく三井寺の覚忠大僧正(一一一八〜七七年)のころになると第一番を那智、紀三井寺が第二番と、現在と同じ順番になっている。また、後白河法皇の勅願寺とし、熊野詣の道筋にも当たったことから大いに栄え、鎌倉時代には僧侶五百人以上に及んだといわれる。

 しかし、嘉吉元(一四四一)年に大災にあって堂塔を失い、天正十三(一五八五)年豊臣秀吉の雑賀衆攻めに寺領の多くを没収され、古文書類も散逸したという。江戸時代になると紀州徳川家歴代の尊崇を受け、紀州祈祷大道場とされた。

 べんべん一行は本堂でご本尊の十一面観音さまに参拝し、ご朱印をいただく。ご本尊の十一面観音菩薩像は五十年に一度開扉される秘仏で、次回は二〇一九年の予定とある。

 副住職の前田師のご案内で、平成二十年に落慶した新仏殿を見せていただく。館内にはまばゆいばかりに輝く、総漆金箔張大千手十一面観音立像が鎮座されている。世界平和を願って五大陸から集めたという木で製作され、奈良の長谷寺にある高さ十メートルの十一面観音像を超える日本一の木造観音像である。

 館内でアメリカ空軍士官学校生の団体と遭遇。べんべん友好の印に特技であるほら貝を披露。やんやの喝さいを浴び、心温まる交流を後に紀三井寺を辞する。

熊野古道沿いに栄えた湯浅宿を歩く
 梅雨空の機嫌はいよいよ泣き出しそう。帰路、世界遺産に登録されている熊野古道沿いに栄えた宿場町、湯浅に立ち寄る。伝統と文化を紡ぐ町、重要伝統的建造物群保存地区として、また、醤油発祥の地として栄えた湯浅町は、熊野古道が唯一商店街を通る町としても知られている。

 鎌倉時代、中国の宋で修業を積んだ僧が伝えた「金山寺味噌」から生まれた、現在の醤油。ここ湯浅は日本の醤油発祥の地として栄えた。白壁の土蔵、格子戸や虫籠窓など、醤油醸造の伝統を感じる家並が残っている。

 醤油の芳しい香りに包まれた一帯、近世から近代にかけての重厚な街並みが残る貴重なものと認められ、平成十八年に文部科学省から重要伝統的建造物群保存地区に選定された。熊野古道沿いには、石の四面に東西南北の方角を示す熊野街道道標が立つ。建立は天保九(一八三八)年で、「すぐ熊野道」「きみいてら」「右いせこうや」と三面に案内が彫られており、紀三井寺、熊野、高野への参詣道を表示したものである。また、この一角は、昔、聖護院及び三宝院の門跡が、熊野入峰の道中、護摩を修した跡と伝えられている。

 最後に角長という屋号の入った仕込み蔵を見学する。吉野杉で出来た木桶。職人の汗と労苦がしみ込んだ道具類など、伝統的な醤油製造の歴史を垣間見ることができた。



 その角長でお土産用に、もろみを三年間熟成させた「濁り醤・匠」という醤油を買い求めた。白身魚、特に焼き魚など風味を味わうものには最適との店主のお話に、和歌山マリーナシティにある黒潮市場で、まぐろでも買い求めて帰ろうと思った。




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