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第三番札所 粉河寺
風猛山粉河寺
べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり寺門高僧記べんべんと行く西国三十三所霊場めぐりも今回で三ヶ寺目。和歌山県は紀の川市粉河にある古刹、粉河寺を訪ねる。残暑厳しい初秋、べんべんの体調もモチベーションも上々、日帰りの旅に出る。  

「じゅんれい道」と刻まれている口有馬道標 現在、粉河寺は西国霊場の第三番札所である。ところが、西国巡礼最古の記録である三井寺の行尊(一〇五五〜一一三五年)の巡礼記では、長谷寺が第一番、第二番が岡寺、第三番は壺坂寺になっており、粉河寺は第四番である。この順番は、同じ三井寺の覚忠(一一一八〜一一七七年)の巡礼記では、第一番が那智、第二番が紀三井寺で、粉河寺は第三番と現在と同じ順番になっている。

 これは行尊のころには、専門的な僧侶や修験者が行なうものであった霊地巡礼が、平安後期ころから浄土教の隆盛とともに熊野が阿弥陀の浄土と見なされるようになる。「蟻の熊野詣」と称される熊野信仰が盛んになると、第一番が那智へと変わり、さらに鎌倉時代も末頃から室町時代初めになると、関東からの一般の巡礼者が次第に増えはじめてくる。彼らは東海道や中山道を経て、まず伊勢参りをしたあと、東熊野街道を通って那智青岸渡寺に向った。その後は和歌山を経て奈良から京都、滋賀へと向うような現行の順序に変化していったのであろう。江戸時代にもなると大都市江戸をはじめとする東国の人々にも西国巡礼熱が高まり、いわば全国仕様になっていった。往時の交通事情をかんがみても一生に一度ともいえる長旅、想像を絶するほどの危険な行程、それをも厭わないほどのご利益が西国巡礼にはあったのであろう。
 『寺門高僧記』収められている行尊や覚忠の最古の巡礼記には、粉河寺が「三井寺末寺」と記されていることから、当時から粉河寺と三井寺は深い関係にあったことがうかがわれる。こうした両寺の関係を示す逸話が、鎌倉時代の説話集『沙石集』に残されている。

 あるとき三井寺の公舜法印という学僧が、熊野本宮に参り、往生極楽を祈念して参籠していると、熊野権現が顕れて公舜に告げられた。「ここには俗人が陸続と訪れ、様々な俗事を願うこと多く、とても心の隙が無い。粉河には霊験あらたかな観音さまがおられるので、そちらに参られよ」と告げられた。そこで公舜法印は、粉河寺に参詣して、祈念したところ、粉河の観音さまのご利益を得て、めでたく往生の素懐を遂げたと伝えている。

千手観音の化身、童男行者
 粉河寺の山号は、風猛山、宗派は天台系の粉河観音宗総本山である。JR粉河駅から徒歩十分ほどのところに、ひときわ豪壮な大門が目に入る。宝永四(一七〇七)年の再建で、重要文化財に指定されている。左右に鎮座する金剛力士像は仏師春日の作といわれ、大きな目玉でべんべん一行を迎えてくれる。

 広い参道はゆっくりと右手に曲がり、本坊(御池坊)、童男堂、など諸堂が続く。その先、中門を越えて一段高くなった敷地に、高さの違う入母屋屋根を前後に並べ、千鳥破風を付した本堂が現れる。べんべんとその関係者は来意を告げ、本尊千手観音菩薩像が祀られている本堂の前でまずはお祈りし、ご朱印を受ける。

 粉河寺の本尊、千手観音菩薩像は絶対秘仏として今までに公開された記録はなく、本堂の厨子の金扉の奥深いところに安置されている。そして、十二月十八日の「終り観音」で秘仏千手観音菩薩の化身である童男行者仏の開帳が行われる。童男堂に集まった近在の人たちは、この日昼食にふるまわれる、けんちゃん料理に舌鼓を打ち、互いの健康と、童男行者仏を拝んだ心が清められた喜びで「来年もおいな(来年もおいでなさい)」と、紀州訛りの優しい言葉がとびかうという。境内を案内いただいた逸木ご住職は、その「終り観音」の賑やかな光景を慈しむかのように話された。

 粉河寺に伝わる「粉河寺縁起絵巻(国宝)」は、平安末期あるいは鎌倉初期の作とされる。

 紙本着色で全長は十九メートルもある長巻の絵巻である。巻首を失くしているが、粉河寺草創にかかわる観音示現の物語が格調高く描かれている。  その粉河寺縁起絵巻をひも解いてみる。粉河寺は奈良時代末、宝亀元(七七〇)年の開創である。当時、紀伊国那賀郡に住む猟師大伴孔子古(おおともくじこ)は、いつも幽谷の樹幹に足場を定めて、夜ごと猪や鹿を狙っていたが、ある晩、光明輝く地を発見。日頃の殺生をはげしく悔い、発心してその場所に柴の庵を建てた。そして仏像をまつりたいと願ううち、ある日、子供姿の修行僧が一夜の宿を求めてきた。

 翌朝、一夜を泊めてもらった童行者は、孔子古の願いを叶えてやること、それは庵に仏像を安置することであった。童行者は七日七夜、庵にこもり、等身の千手観音像を刻んで立ち去った。童行者は、千手観音の化身であった。その観音像は今なお伝えられている粉河寺本尊そのものである。

 ときは移り、河内国の長者佐太夫の一人娘が長患いしていた。そこへ童行者が訪ね来て、一心に祈り、やがて娘の病は回復した。童行者は長者がお礼にと申し出た七珍万宝を断り、泣く泣く娘が捧げる堤鞘(小刀)と袴のみを手に「わが住まいは紀伊の国伊那郡の粉河である」と告げて立ち去った。

 翌年春、長者一家は粉河を訪れたが、探しあぐねて小川の傍らで一休み、ふと流れる水が粉を流したような白い水の流れる川があった。この川こそ粉河の証しであることを確信し、さらにその川辺をさかのぼり草庵を発見した。その草庵の扉を開けると千手観音が荘厳な様子で立っていた。観音の手には長者の娘の袴と提鞘があった。人々は「千手観音が童の姿となって、娘を助けてくださったのだ」と知り、発心して出家し、ここに粉河寺創建の途につくのである。

 絵巻は豊かな詩情をたたえている。また宗教的絵画、説話的大和絵としての評価も高く、日本美術史上に誇る香り高い絵巻である。

篤い信仰心に守られて
 粉河寺は創建時より多くの人々の崇敬をうけて繁栄した。鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十坊、東西南北各々四キロ余の広大な境内地と、寺領四万余石を有していた。



ところが、天正十三(一五八五)年、豊臣秀吉による紀州攻めによって開創以来の苦難のときを迎える。秀吉は天下統一の望みを達成するため、粉河寺近くの新義真言宗の総本山根来寺を攻める。その際に粉河寺も全山焼失の憂き目をみる。偉容を誇った堂塔伽藍と多くの寺宝も焼失したという。

  その後、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって再興されることになる。現存する多くの堂舎は、いずれも江戸時代の再建である。西国三十三所の寺院の中で最も大きい規模を誇る本堂は、江戸中期の代表的な寺院建築であり、千手堂、大門、中門の四棟とともに重要文化財に指定されている。



 また、偉容を誇る本堂とともに目を引くのが雄大な石組みの庭園である。本堂を仰ぎ見るように巨大な岩石を変化に富んだ独創的な手法で組み上げられた石組は、日本庭園の中でも先例のないものである。参道石段の両翼に紀州の名石を組んで枯山水を構成し、蘇鉄や五月、柏槇(びゃくしん)、しだれ桜などで変化をあたえている。この庭園は、茶人・造園家として著名な上田宗固の作庭と伝えられ、桃山時代の豪快な気風を表現する枯山水観賞式蓬莱庭園といわれ、国の名勝に指定されている。


緑がひときわ映える広々とした境内。霊場の雰囲気に全身に感じた「べんべん」は、柄にもなく「緑濃く写し絵のごとく枯山水」の一句を残して、粉河寺をあとにした。

補陀洛山寺本堂




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