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![]() ![]() 1.フェノロサと日本 アーネスト・F・フェノロサ(1853〜1908年)は、アメリカ東海岸マサチューセッツ州セーラムで生まれ、ハーバード大学卒業後、 エドワード・モースの紹介で明治11(1878)年に初めて日本の土を踏みます。来日するや日本美術のすばらしさに魅せられ研究に没頭します。ことに明治政府による畿内古社寺宝物調査団の主要メンバーとして法隆寺をはじめ古社寺に伝えられてきた多くの文化財を調査したことで知られ、この調査が後に古社寺保存法の制定へと結実することになります。また草創期の東京美術学校や帝室博物館の運営にも携わり日本の美術教育にも大きな足跡を残しました。2.三井寺法明院・桜井敬徳との出会い フェノロサは、やがて仏教への関心を深め、岡倉天心の紹介で知り合った三井寺法明院の桜井敬徳和尚に深く帰依することとなります。明治18(1885)年9月21日には、友人のビゲローと共に敬徳和尚から梵綱菩薩戒を受け、「諦信」という法名を授かっています。その後も度々、三井寺法明院に滞在し、また敬徳のための道場を東京に建設するために奔走しています。また、敬徳が東京で病に倒れ、明治22(1889)年12月14日に亡くなるまで看病に尽くしています。また、明治29(1896)年の3度目の来日に際しては、三井寺にメアリー夫人を伴い、敬徳の後を継いだ直林敬円のもとを訪ね、メアリー夫人に受戒を勧めています。この時、敬円はメアリー夫人に菩薩十善戒を受け、「光瑞」という法名を授けています。 ![]() ![]() 3.遺言により三井寺法明院に埋葬する 帰国後は、アラバマ州モービル郊外スプリング・ヒルに新居を購入し、日本に滞在していたときの地名から新居を「コビナタ」名付け、日本美術に研究に打ち込みますが、明治41(1908)年9月21日、ヨーロッパ旅行中のロンドンで狭心症の発作に襲われ急逝します。享年55歳でした。遺体は、遺言により三井寺法明院に葬られることになり、翌明治42(1909)年9月21日に無事、法明院の墓地に埋葬されました。この年の11月には一周忌法要が営まれ、フェノロサを偲んで茶会や古画展示会が法明院で開かれています。4.フェノロサ没後100周年記念式典の開催:2008年10月5日 ![]() フェノロサ(一八五三〜一九〇八 年)は、米国マサチューセッツに生ま れ、ハーバード大学卒業後、明治十一 (一八七八)年に来日し、日本美術に 魅せられ、その研究に没頭しました。 また、古社寺の文化財の調査、保護、 東京美術学校や帝室博物館の運営にと 日米の文化交流に大きな足跡を残しま した。 明治十八(一八八五)年には、法明 院の桜井敬徳和尚から梵綱菩薩戒を受 け、「諦信」という法名を授かりまし た。明治四十一(一九〇八)年九月二 十一日、ロンドンで急逝しますが、遺言により法明院の墓地に埋葬されまし た。 記念式典は、日本フェノロサ学会(会 長・村形明子京都大学名誉教授)主催 のもと会員など約百名の参列者が見守 るなか園城寺長吏猊下御導師により追 悼法要が行われました。 法要では、フェノロサ自作の詩「題 兆殿司」が、村形明子会長による解説 の後、詩人グエン・ヘルバーソン氏に よる英詩の朗読、吟詠家・野田雅詠氏 の漢詩朗詠が行われ、引き続いて追善 能として仕舞「錦木」が観世流能楽師 ・片山清司氏により奉納されました。 参加者は、法要終了後にフェノロサ の墓所に参拝され、午後からは光浄院 客殿、勧学院客殿を拝観されました。フェノロサを偲びつつ、秋の訪れを感じさせる三井寺での一日を過ごされました。 フェノロサ没後百周年記念追悼法要
平成二十年十月五日午前十一時 園城寺北院法明院
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