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2012年、今年のNHK大河ドラマ「平清盛」の放送が始まりました。 三井寺と新羅源氏 源氏と三井寺との間には深い関わりがありました。源頼義は前九年の役(1051年)出陣の際に、三井寺と新羅明神に参拝し武功を誓い、その三男義光は新羅明神で元服し新羅三郎と称されました。頼義は前九年の役を平定した後、子息の快誉を三井寺の僧侶とし、三井寺別院の尾蔵寺境内に祠を建て、石清水八幡宮を勧請して三井寺の鎮守としました。これが鴿尾(はとのお)八幡宮(新八幡宮)です。現在は尾蔵寺、鴿尾八幡宮ともに廃寺となり、大津市立の長等公園となっています。これ以後も、義光が子息の覚義を出家させ、三井寺北院に金光院を創建するなど、源氏から三井寺に多くの僧が入り、その関係は深まっていきました。 三井寺と源平争乱 平治元年(1159年)、平清盛と源義朝の勢力争いに、院内近臣らの争いも加わり戦乱が勃発しました(平冶の乱)。この戦いに清盛が勝利し、義朝は死亡、その子頼朝は伊豆に流され、源氏は力を失いました。 浄妙坊と橋合戦(宇治川の戦い)
以仁王と源頼政は三井寺を出て奈良へ向かうとき、多くの三井寺の僧兵を護衛として同行させました。中でも浄妙坊(筒井浄妙)は豪傑でした。宇治川(宇治橋)を挟んで平氏と対峙した時、浄妙坊は橋の上へ進み、大きな声で「日ごろは音にもききつらむ、いまは目にも見たまえ。三井寺にはそのかくれなし。 堂衆のなかに、筒井の浄妙明秀といふ、一人当千の兵者ぞや。われと思はむ人は、寄りあへや、見参せむ」 といい、矢二十四本で十二人を射抜き、 十一人に負傷させました。矢が尽きると、毛沓を脱いではだしになり、橋の行桁を走り渡り、 長刀で向かってくる敵を五人なぎ倒し、六人目に立ち向かううち、長刀は二つに折れたので、 次は太刀を抜いて四方八方をすかさず斬りつけました。その場で八人の敵を斬り倒しましたが、九人目の甲の鉢に刀を強く打ちつけ、刀は折れ川の中に落ちました。戦いのあと、浄妙坊の脱いだ鎧には矢目が六十三も残っていました。『平家物語』には浄妙坊の戦ぶりを「ひとへに死なんとぞ狂ひける」と表現しています。 浄妙坊と祇園祭 京都祇園祭の山鉾の一つ「浄妙山」は、橋合戦において、敵陣に一番乗りをしたい一来法師が、狭い橋の上で奮戦する浄妙坊の頭上を「悪候、御免あれ」といい飛び越えた一瞬の場面を表現しています。また、この場面は先陣争いではなく、一来法師が浄妙坊をかばうために前に出たともいわれています。 参考 : 『寺門伝記補禄』 『平家物語』 『大津市史』 << ピックアップに戻る |
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