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天台寺門宗(てんだいじもんしゅう)の総本山である三井寺(みいでら)は 正式名称を長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といいます。 滋賀県大津市、琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有しています。 また、湖国近江の名勝、近江八景の一つ「三井の晩鐘」でも知られています。 667年に天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれました。 672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が 皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。 壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために 「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建し、 天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが園城寺の始まりとされています。 勝利をおさめた大海人皇子は再び飛鳥に遷都し、近江大津京はわずか五年で廃都となりました。 三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に 御産湯に用いられたという霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたものを後に 智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来します。 現在、金堂西側にある「閼伽井屋」から湧き出ている清水が御井そのものとされています。 貞観年間(859〜877)になって、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)和尚が、 園城寺を天台別院として中興されてからは、 東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ、 南都北嶺の一翼を担ってきました。 円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、 正暦四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。 この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されました。 その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しましたが、 智証大師への信仰に支えられた人々によって支えられ、その教法は今日に伝えられています。 三井寺の本堂、金堂には、本尊として弥勒菩薩(みろくぼさつ)が祀られています。 「寺門伝記補録」によると、身丈三寸二分の弥勒菩薩が祀られていることがわかりますが、 絶対の秘仏となっているために見る事ができません。 この弥勒菩薩は天智天皇の御念持仏と伝えられています。 さらに、推古天皇、聖武天皇、陽成天皇、藤原鎌足、藤原道長、行基菩薩が奉納した 六躯もの弥勒菩薩がお祀りされています。その他にも智証大師ゆかりの仏像や宝物が秘仏として大切に安置されています。 西国三十三所観音霊場巡礼の第十四番目の礼所である観音堂がよく知られています。 その他にも「近江西国観音霊場・第五番札所(観音堂)」、 「湖国十一面観音霊場・第一番札所(微妙寺)」、 「西国薬師霊場・第四十八番札所(水観寺)」として多くの信仰をあつめています。 |