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〔今回のテーマ〕詩人・石原吉郎(前編) 日本の戦後詩がこぞって〈喪の作業〉であったとすれば、一直線にそのど真 ん中に差し込んだ詩人、石原吉郎は現代文学の荒地に屹立する。(前編)
1).
ぼくが石原吉郎という詩人を知ったのは、そう昔のことではない。
瀬尾育生の『あたらしい手の種族』に収められた石原吉郎小論「人間の美しい収容所」を読んで以来、
ぼくのなかに何かがひっかかったまま時が経過していったのを覚えているだけである。
その後、偶然に古書店で『断念の海から』と『一期一会の海』をみつけ買い求めた。
その時はべつにすぐ読もうと思ったわけでもなく、
この日本基督教団出版局から出版された二冊のエッセイ集が今では入手し難い本であることを知ったのも最近のことである。
ぼくは昨年からナチによるユダヤ人等のショアーに関する文献やプリーモ・レーヴィ、
パウル・ツェランなど絶滅収容所から生還した人たちの作品を読んできたが、
そうこうするうちに、シベリアに抑留された詩人石原吉郎の名が浮かんできたのである。
こうした時、奇しくも多田茂治による労作『石原吉郎「昭和」の旅』が刊行され、
戦後詩のなかでも特異な位置を占める詩人の痛切な軌跡を辿ることができるようになったのは、
ぼくにとって偶然とはいえ幸いであった。
2).
石原吉郎は、大正四年(1915)生まれ。東京外語を卒業後、昭和十四年、二四歳の時に召集され、
陸軍露語教育隊高等科に送られた後にハルビンの関東軍特殊通信情報隊に配属された。
昭和二〇年のソ連参戦と日本の敗戦によって関東軍は霧散してしまい、
十二月にソ連内務省に連行され、シベリアに抑留される。翌年一月にチタ到着。
梯団編成後、イルクーツク、ノボシビルスクを経てカザフ共和国を南下、アルマ・アタの収容所に収容される。
昭和二二年にはカラガンタ日本軍捕虜収容所に移され、同二四年、
中央アジア軍管区軍法会議カラガンダ臨時法廷においてロシア共和国刑法五八条(反ソ行為)により起訴、
重労働二五年の判決を受ける。同年十月にバム鉄道(第二シベリア鉄道)を北上し、
沿線密林地帯のコロンナ三三収容所に到着、森林伐採などを行う。
昭和二五年の春にはコロンナ三〇に移動し、土木、鉄道工事、採石などの強制労働に従事する。
後に石原は、このバム沿線地帯での体験を「僕にとって、およそ生涯の事件といえるものは、
一九四九年から五〇年へかけての一年余のあいだに、悉く起こってしまった」と書きつけている。
その後、同年末にはハバロフスク市第六分所に収容。
昭和二八年(一九五三)のスターリン死去による特赦によって
ナホトカの旧日本軍捕虜収容所を経て同年十一月三十日、興安丸によりダモイの途につき舞鶴港に到着した。
時に石原は三八歳になっていた。
3).
こうして石原は、すでにして後もどりのできない深淵を見とどけた人間としてシベリアの地から帰ってきた。
再び日本の社会にあって、その日常を生き抜かねばならなかった。
ここから、詩人石原吉郎は誕生する。
十七のときに抑留され、ハバロフスクで二十二になったこの<少年>が、
声をころして泣いているさまに、私は心を打たれた。
泣く理由があって、彼が泣いているのではなかった。
彼はやっと泣けるようになったのである。バム地帯で私たちは、
およそ一滴の涙も流さなかった 『望郷と海』所収「強制された日常から」
彼は、帰還後の「新しい環境での違和と疎外の感覚は、まず時間と言葉の面ではっきりあらわれた」と云う。
それは、昨日までシベリアを流れていた時間と戦後八年を経てすでに
戦後社会になりきっていた日本にあって自分の周りを流れ去る時間や人々によって
取り交わされる言葉との切断であった。
この一切から隔絶された孤独は、やはりアウシュビッツの生還者、
プリーモ・レーヴィが絶滅収容所にいるときからすでに再三再四うなされたという悪夢と同じものであろう。
それは収容所から解放されて故郷の家に帰った時、
自分の経験したことをいくら話しても家族でさえ誰も理解しようとしないというものであった。
シベリヤの強制収容所は、その「凄まじい現実の中で、疲労し衰弱しきっている時には、
およそその現実を<体験>として受け止める主体なぞ存在しようがない」といった、
体験を体験たらしめる統覚としての主体の喪失と失語をもたらした。
ここで云う失語とは、自らが自覚して言葉を発しない沈黙のことではない。
「囚人は、現在の実感について語らない。現実が決定的に共有されているとき、
それについて語ることの意味はうしなわれる。そこでは人びとは、言葉で話すことをやめるだけでなく、
言葉で考えることすらやめる」という状況のなかで言葉が徐々に脱落していくことである。
従って、その時には言葉を失っていることは本人には自覚されない。
それが自覚されてくるのは、帰還後「新しい日常のなかで、ながい時間をかけてことばを回復して行く過程で、
はじめて体験としての失語というかたちではじまります」。 (『海を流れる河』所収「失語と沈黙のあいだ」)
私は八年の抑留ののち、一切の問題を保留したまま帰国したが、これにひきつづく三年ほどの期間が、
現在の私をほとんど決定したように思える。この時期の苦痛にくらべたら、強制収容所でのなまの体験は、
ほとんど問題でないといえる。……苦痛そのものより苦痛の記憶を取りもどして行く過程の方が、
はるかに重く苦しいことを知る人はすくない。(同前)
シベリアという失語の地からの帰還、そして一切を語りたいという際限もない饒舌から沈黙へ。
孤独の中にあって苦痛の記憶を一つ一つと掘り起こし、体験し直すことは、失われた主体を取り戻し、
失語状態から言葉を再び回復する道行きそのものでもあった。
もとより石原は、帰還以前に詩人であったことはないし、楽しみのために詩を書いた訳でもなかろう。
ただ書かざるを得なかっただけである。詩を書くことが生き延びることであった。
彼にとって詩は、故に「混乱を混乱のままで受けとめることのできる唯一の表現形式」であったのである。
さて、今日の文学の状況を考える時、いかほどの作家や詩人と云われる人が、石原の位置から、
あるいは芥川龍之介や太宰治の自死を見つめた場所から言葉を発しているであろうか。
いま、ぼくが石原に向かう切迫はいつにそこにある。
4).
こうして産み出された詩は、昭和三八年、詩集『サンチョ・パンサの帰郷』として刊行され、H氏賞が贈られる。
しかし、なおシベリアの体験を散文で綴るまでには時間を必要とした。
詩から散文へ。最初のエッセイ集『望郷と海』が刊行されるのは昭和四七年(一九七二)のことである。
この本の生い立ちについて『一期一会の海』所収「<体験>そのものの体験」において彼自ら次のように語っている。
「散文によってこのようなエッセイを書き始めたのは、帰国後十五年程たってからであります。
私にとって表現という行為に追いつめられることに於いて、<詩>と<散文>のこうした対応の違いは、
非常に重要な意味を持っています。…帰国直後の精神的な混乱とアンバランス、
そしてそれに当然付きまとう失語状態から、曲がりなりにも抜け出すことができたのは、
私に<詩>があったからだと思います。その後、私が散文を書き出すまでの十五年程の期間は、
外的な<体験>を内的に問い直し、そこから問い直す主体とも言えるものを確立するための、
言わば試行錯誤の繰り返しであった」。
『望郷と海』が現在のぼくたちに送りつけるのは、
シベリア抑留の現実を伝える戦争体験談や苦労物語といったものではなく、
苛酷な体験を強いられた人間からの<体験>そのものにまつわる深甚な問いかけである。
私たちはただ被害的発想によって連帯し、バム地帯での苦い記憶を底に沈めたまま、
人間の根源にかかわる一切の問いから逃避した。私自身、あらためておのれの背後に向きなおり、
被害的発想と告発の姿勢からはっきり離脱するという課題を自己に課したのは、帰国後のことである(同前)
こうして石原は、疼くような思いで読んだというフランクルの『夜と霧』を導きの糸に、
「結局はシベリアに抑留されたわれわれは戦争被害者であり、悪いのは日本の政府や軍部であった」
とする<告発の姿勢>や<被害者意識>からきっぱりと離脱する。
大量殺戮のもっとも大きな罪は、そのなかの一人の重みを抹殺したことにある。
そしてその罪は、ジェノサイドを告発する側も、まったくおなじ次元で犯しているのである。
戦争のもっとも大きな罪は、一人の運命にたいする罪である。およそその一点から出発しないかぎり、
私たちの問題はついに拡散をまぬかれない(同前)
ここで石原が断固として拒否する論理は、
まさにアイヒマンがイスラエルで語ったという「百人の死は悲劇だが、
百万人の死は統計だ」という裏返しの言葉といみじくも通底している。
彼がフランクルの「すなわちもっともよき人びとは帰っては来なかった」
という言葉を受けて「そして、もっともよき私自身も帰っては来なかった」
と書きつける時、<告発の姿勢>や<被害者意識>を峻拒し、
自己を否定しつつどこまでも掘り下げていく石原の姿が浮かんでくる。
ここでぼくたちは彼の詩を安易に批評したり共感することのむなしさに撞着する。
ぼくらに出来るのは、ただ彼の詩の来し方を指し示すことだけである。(次号につづく)
(園城寺執事 福家俊彦)
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