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〔今回のテーマ〕9.11以後 アメリカを襲った同時多発テロは、現代が切迫した対立や矛盾を抱え込んだ危機的状況にあることを誰の目にも明らかにした。今、未来への希望はどこにあるのだろうか。
1). 季節が新緑をしたがえて夏へと向かう頃、子供が真っ白な子犬を拾ってきた。ジュンと名付けられた子犬は、わが家のイヌ仲間と元気に暮らしていたのだが、程なく分かってきたのは、このイヌには先天的な障害があるということだった。視力や骨格の機能、脳にも障害があるようだった。致命的だったのは、自分で自分の傷を治すことができない、まったく自然治癒力がないことだった。どんな薬を投与しても足の傷の化膿が止まらず、獣医さんも懸命に治療していただいたのだが、やがて左足が壊疽をおこし膝から下を切断せざるを得なくなってしまった。それでも家のまわりを散歩するなどしていたのだが、今度は反対の足や切断した縫合部がいっこうに治らず、ますます悪化していくなかで獣医さんや家族とも相談して、ついに安楽死の選択をしなければならなくなってしまった。
この数ヶ月、この傷さえ治ればと妻と共に毎日数度の消毒、包帯の交換、外傷部を咬まないようにガードする口輪をつけるなど、これで良くなるかと何度も希望を抱き、その都度、潰えてきた。妻と分かち持ったこの悲しみ、この無念、もはや静かに土に帰してやることしかできない沈痛の思いは容易に言葉には表し得ない。
2). アメリカを襲った同時多発テロから一年が過ぎた。九・一一以降、世界では様々な言説が飛び交い、多くのことが生起した。テレビが繰り返し伝えるあの衝撃的な映像を前に、途方もない暴力に暗澹たる思いを覚えながらも、識者と称する人による受け売りするには役立ちそうな解説や単純化された発言に接し、ぼく自身何か痒いところに手が届かない違和感を感じていた。
こうしたなかにあって、スーザン・ ソンタグがテロの二日後に発表した発言は大いに注目すべきものであった。
『この時代に想うテロへの眼差し』は、この毀誉褒貶、様々な反応を巻き起こした発言を含めテロ以降に書かれた三つの文章を収録した第一部と紛争のさなかにあるサラエヴォで考えたことや大江健三郎氏との往復書簡などを収めた第二部からなる。何よりも本書を読みながら考えさせられたのは、今回のテロに限らず「言語道断の暴力やそれに付随する無思慮ないしは悪意」が蔓延する現実の世界にあって、「他者」の存在と文学の果たすべき使命についてであった。
こんな時代にこそ、ぼくたちは文化も考え方も異なる「他者」を理解し、共に生きることの困難さについて考えてみなければならない。しかも、この困難さは二重化されているからである。
今回のテロ事件に即して言えば、先ず日本や欧米におけるイスラム世界やアラブ人、ムスリムについての情報不足や無理解がある。これは日本のマスコミを含め、ぼくたち自身が欧米的見方、これを今日ではグローバリゼーションと呼んでもよい、を知らず知らずのうちに如何に内面化しているかということの証でもある。
次に、この困難さは自分たちが慣れ親しんでいる社会の外部にある「他者」に対して、本来は自分たちの社会(内部)だけに通用するはずの規準を唯一絶対なものとして、すべての人や存在に当てはめ、それで事足れりとするぼくたちの心の姿勢である。そして、自分たちの規準から外れた存在を「異人」、「外人」として、場合によっては人間以下の存在として世界の周縁部へと放逐してしまうぼくたち自身の意識構造である。
それでも提案したい。私たちが他者と共有している世界にどれほどの苦しみがあるのか、それを感じる心を認知し、拡張することは、それじたい良いことだ、と。さらに、言っておきたい。堕落が居座っているとひたすら驚くだけで、手をこまねいている人、人間というものが、自分以外の人間たちに対して、どれほど陰惨で直接的な残酷な行為をしでかしてしまうものか、その証左を突きつけられても、幻滅するばかりで、その先のない人。こういう人たちは、道義的または心理的に大人になっていない
例えば、アメリカの常識や規準を世界中に敷衍していけば、やがて陳腐なことに世界全体がアメリカになってしまう。特にテロ直後にアメリカで高揚した「愛国心」にしても、時にはアメリカを認めない者に対する不寛容や憎悪、集団的熱狂へと転移していく可能性があることは誰も否定できないであろう。ぼくたちは「他者」を自分と同質の存在として理解しようとする傾向がある。しかし、いつの時代にも「他者」は存在してきたし現に今も存在している。さらに付け加えれば、ぼくたち自身「他者」の存在なくしては真には存在することはできないのである。
文学は、単純化された声に対抗する、ニュアンスと矛盾の住み処である。作家の職務は、精神を荒廃させる人やものごとを人々が容易に信じてしまう、その傾向を阻止すること、盲信を起こさせないことだ。作家の職務は、多くの異なる主張、地域、経験が詰め込まれた世界を、ありのままに見る目を育てることだ
本書の底流には、書くことをこととする文学者が、単に著名人として世間から求められて、今ここの現実に対して安易に関与し、発言することへの危うさとわだかまりへの自覚が流れている。「常套的な言辞や単純化と闘うのが作家の仕事だ」との彼女の明言は、文学に携わる人の良心と誠実な使命感の表明に他ならない。
3). ところで、愛すべき家族の一員として一緒に暮らしているとはいえ犬や猫も人間にとっては絶対的な「他者」である。犬は犬の掟、猫は猫の世界を生きている。ぼくたちは、ペットとして人間の生活や規準にあわせて、時には擬人化し、人間と同じように感情移入して接していることを心のどこかで押さえておく必要がある。
大塚英志氏に、犬好きだった江藤淳と自らの作品にも愛猫が登場する少女まんが家・大島弓子を論じた「犬猫に根差した思想」(『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』所収)がある。
ここで彼は、飼っていた犬や猫を失った時の二人の体験の相違に注目して「けれども愛する対象を失って自らも病に倒れる、という体験を経た一人の批評家と一人の少女まんが家の脆さと強さの質はとても大切な問題だと思う」と述べている。ぼくはこの発言にソンタグの「意見をもつことはたやすい、安易すぎる、という自覚がありました。たとえ正しい意見でもそうです」を接続したい。そして、すべからく自分と「他者」の関係を築いていく上で、大塚氏と共に少なくともこれだ
けは言っておきたい。「犬猫に根差せない思想というのをぼくはどこかで信じていないのである」と。この言葉をジュンの霊前に捧げたい。
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今回のテロ事件との関連でアメリカとイスラエル、パレスチナのことを知るには、パレスチナ生まれの
アラブ人でコロンビア大学で教鞭をとるエドワード・W・サイード『戦争とプロパガンダ』をお勧めする。 (園城寺執事 福家俊彦)
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