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大阪府の新羅神社(5)

四.東成区の新羅の女神を祀る神社
 神社は「比売許曽(ひめこそ)神社」という。東成区小橋に鎮座。女神である。元々は真田山(姫山)(天王寺区真田山町のあたり)にあったが信長の兵火に遭い現在地に遷座された。姫山の由来は比売許曽神社があったことによるとされる。東成郡はもとの東生郡で後に住吉、東生、百済の三郡に分かれたが、古くから渡来系の人々が多く住んでいた地域である。神社のある町は下町風の商店街と民家が混在したような感じをもった町である。整備されたきれいな歩道から少し中に入ると突き当たりに石造の大きな明神鳥居と社殿が見える。境内には大きな楠の木が繁っている。「神明如水晶」、「神徳如池」式内比売許曽社と書かれている。拝殿は切妻、平入り、照屋根に千鳥破風鬼板付きである。本殿は流造りで向拝を持つ。大きく、立派な社殿である。

祭神は神社の説明の紙には「祭神、下照比売命(したてるひめ)(出雲の大国主命と宗形の多紀理姫命の子神)(味耜(あじすきたかひこね)高彦根命の妹神)、相殿の祭神、速素戔嗚命、味耜高彦根命、仁徳天皇、用命天皇を祭る」と記してあるが、『記紀』によれば祭神の由来については、新羅の王子天日槍(あめのひほこ)(又は大加羅国の王子、都怒我(つぬが)阿羅斯等(あらしと))の妻であったが、逃げて日本国に入り難波に至って比売語曽(ひめごそ)社の神となった。また豊国(とよくに)の国前郡の比売語曽社の神となったとある(『記』には応神朝、新羅の王子天日槍の妻・比売語曽(ひめごそ)社に坐す阿加流比売(あかるひめ)神とあり、『紀』では垂仁朝、大加羅国の王子都怒我阿羅斯等の妻比売語曽社の神とある)。更に『風土記』摂津国の条にも「応神朝」の話として同じ記事が記載されている。

これと同じような話が朝鮮の『三国遺事』に「延烏郎(よんおらん)と細烏女(せおにょ)」説話としてある。朝鮮(新羅)でも同じ類の説話が伝わっていたことをみると史実の反映であろう。それでは、この比売神の由緒はどのような意味であろうか。

恐らく、赤留比売(あかるひめ)(阿加留・阿加流とも書く)という巫女を戴いた新羅人の集団が渡来して難波に来たということであり、新羅から来た渡来の神の夫婦神が日本で大王とその妃になったという伝承があったのであろうか。河内王朝といわれる応神天皇の時代に記載されているが、この天皇は母親の出自や気比大神との縁をみると新羅との繋がりが強いことが判る。或いは比売許曽の神は神功皇后のモデルであろうか。

 この比売神を祀る社は九州豊前の姫島、筑紫の香春、怡土(伊都国)、小郡、佐賀県の鳥栖、広島の呉、大阪の西淀川区、平野区などにそれぞれ存在している。比売許曽神社

当社の由緒については『摂津名所図会』などには、小橋村の生土神で今の地は当村の生土牛頭天皇の社にして、天正の兵乱の時天地を失い此天王の社の相殿に移し祭る。下照比売命亦の名、高姫命、亦の名、稚国玉比売命あるいは天探女とも号す。神代に天磐船にのり給い、この地に天降り給うによりこの地を高津と号したという説明がある。従って、この社殿は元の牛頭天王の社殿であり当地は高津といったようである。別名、高津天神といい、近くの山を磐船山といったようである。村の生土神といい、天磐船に乗り、天降りしたというのは、渡来して来たということであろう。渡来は相当古く、素戔嗚尊との直接の関係は不明であるが、下照姫と同神というのは『記紀』の神話の中に、天若日子(天稚彦)が出雲に至り、下照比売を娶りとあり、『大阪府全志』には、天稚彦が下照比売命を娶り、天探女を具して舟に乗り、高津の地に来り住まわせたまう、とあるので出雲の姫神を下照といったのかも知れない。『大阪府全志』には、祭神・比売許曽神とある。元々は比売許曽神であり、下照姫は後世の付加であろう。比売許曽神と赤留比売神は同じ神である。

 延喜式には下照比売社は即ち比売許曽神社なりと記してあり、且阿加流比売命を祭れる神社を、住吉郡に赤留比売神社と明記してある。延喜式の赤留比売神社を比売許曽の社名に改めるべきものを改めないで置いたため、混同することとなったようである(『大阪府全誌』ほか)。



五.平野区の新羅の神
杭全神社の拝殿 平野区は東住吉区の東隣である。『和名類従抄』(九三一─九三八)によれば旧住吉郡の杭全(くまた)郷である。なお住吉郡の隣に百済郷があった。この辺りは渡来系の氏族、特に百済系の氏族が多く住んで居た。今でも関西本線には「百済駅」(貨物駅)、旧百済川(現在の平野川)には「百済橋」があり「百済小学校」もある。平野郷は平野川の台地の上にあり、百済野と云われてきた。南北時代から戦国時代にかけての平野郷は堺と同様の自治都市であり街の周囲に二重の濠と土塁を築き十三の惣門を構えたといわれ、平野本郷の北部に杭全神社、南部に赤留比売神社を祭った。平野の地名の由来は、九世紀、坂上田村麻呂が東北地方の蝦夷征伐の功により、その子広野麿が杭全荘を荘園として賜った。広野麿の広野が平野に転化したといわれている。

(1)新羅の神を祭る杭全神社
  杭全神社の東側一帯は環濠跡が今もある。杭全神社は坂上氏の祖「阿知使主」(漢人系の渡来氏族)を祭った社で、百済系の神社といわれている。平野郷民の産土神といわれている。しかしこの神社は明らかに新羅系の神々を祭っている。

井上秀雄『古代朝鮮』でも説明されているが、弓月の君の伝承や阿知使主の伝承に代表される氏族の始祖伝承は『百済記』にひかれて百済からの渡来となっているが、いずれもその氏族名からみて、加羅(新羅)からの渡来と見られるといわれている。当社は素戔嗚尊や天日槍の妃を祀っていることも、新羅系の社とみる理由である。

神社の社殿は公園の一角にある。大通りに面して、石の大きな明神鳥居があり、その下から長いコンクリートの参道を進むと神社の杜である。鳥居の前の地名は「宮前」という。杜の入り口に、大きな「杭全神社」と書かれた石柱が建っている。ここからの参道がまた、長い。200mくらいある。
 


(東京リース株式会社・顧問)






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