五.平野区の新羅の神(続き)
杭全神社の参道は中央が石畳。石畳の両側は砂がひかれた巾も10m以上ある広い道。境内は広く、大楠の御神木(樹齢1千年という)や笈掛松(熊野権現の縁起―当社へ山伏が一人笈を負い来たり、社僧に役の小角が刻んだ熊野権現の尊形を渡し、当社の牛頭天王と並べてあがめれば、此の郷を守護する…)などもある。遥拝所や太鼓庫なども配置されている。大門(四脚門)をくぐり中に入ると参道が続き、正面に大きな建物の拝殿がある。立派な建物で唐破風の庇を持つ入母屋の社殿。拝殿の前に松の木、周囲は楠の大木と境内社で囲まれている。拝殿の裏に中門(鈴門つきの幣殿を兼ねたような建物)があり、その奥に本殿が第一、第二、第三殿と並んでいる。第一と第三殿は春日造り、第二殿は流造り。祭神は、第一殿は素盞鳴命、第二殿は伊弉冉命・速玉男命・事解男(ことさかお)命、第三殿は伊弉諾命。境外社に赤留比売神社(三十歩神社)を祀っている。
『平野郷社縁起』は当社の由来を「昔、坂上某に神託ましまして、我はこの郷の神也。待つこと久し、即ち山城の国愛宕郡八坂郷祇園の牛頭天王これなり、今よりこの郷に崇め祭りなば、安穏人民豊楽を守らんと宣い、勧請し奉りし…」と記している。この伝承によれば祭神は牛頭天王即ち素盞鳴命である。十一世紀に描かれた『浪華古図』の「久太良洲」にも牛頭天王社が描かれているので、素盞鳴命はこの時代には新羅の神から三韓の神となっていたのかも知れない。当社は古くは祇園社で、その後、後醍醐天皇の頃、熊野権現社といわれ、明治になり杭全神社となった。
(2)新羅の姫神を祀る赤留比売命神社
平野本郷の南東の角、百済橋の南に平野公園があり、神社は公園の中にある。公園の西半分は旧環濠跡である。神社の前に「杭全神社飛地境内・式内赤留比売(あかるひめ)命神社」と刻まれた大きな石柱が立っている。拝殿は入母屋造、本殿は流造で朱色である。祭神は赤留比売命。神社の説明書と『杭全神社』によれば、赤留比売命神社─平野環濠都市遺蹟─当社の祭神、赤留比売命は新羅から来た女神で天之日矛の妻と伝える。当地を開発した渡来氏族の氏神として祀るが、創建は詳らかでない。平安時代につくられた延喜式神名帳には、当社が記載されている。かつては住吉大社の末社であったために七月三十一日の住吉の例大祭「荒和大祓(あらにごのおはらえ)」には当地の七名家より桔梗の造花を捧げるのが慣例であった。大正三年、他の神社と共に杭全神社境外末社となり今日に至っている。
当社は、昔は平野流町の門外字中山にあったがその後平野郷町三十歩に移座した。俗に三十部神社と呼ばれているが、これは応永の頃、僧覚証が旱魃に際し祈雨の為法華経三十部を奉読し霊験があったのでこの名称が起きたといわれている。その為に古来雨を祈る神といわれている。
平野区が百済人の住んだ町であることは、百済に係わる名称が残っていることからも推測できる。すると百済の人々が新羅系の神を祀ったのか、あるいは、新羅系の人々の居住が先にあり、その後、百済系の人々の入植があったのかのどちらかであるが、赤留比売命は天之日矛の妃で、日光感情伝説をもつ「日妻(ひるめ)」とみれば、日神を祀る巫女であり、古代に祀られた土着の神であると思われる。新羅系の人々の居住地に比較的後の時代(七世紀か)に百済系の人々の居住があったのではないかと考えられる。
『住吉大社神大記』によれば、赤留比売も下照比売も住吉大神の御子神となっている。比売許曽神社の祭神が阿加流比売(赤留比売)から下照比売神に変わったのに当社の神は赤留比売神で変わらなかったのは新羅寺を神宮寺とする住吉大社との関係からであろうか。この新羅の女神が住吉神社とも杭全神社とも繋がりがあることをみると、この両社とも新羅系の神社であろう。それにしても何故女神のみを祀ったのであろうか。天日槍と赤留比売が共に祀られなかったことは何を意味しているのであろうか。
なお、西淀川区姫島に姫島神社があり、祭神は阿加流比売神である。この地域は、かつては大阪湾の海中であった地域で姫島は八十島のひとつであった。
河内の新羅神社(2)
一.古代の河内国
現在の大阪府の淀川から南にあたる地方の大部分は河内国である。古代の河内国は、北は山城国の山崎に近く、東は大和国の生駒、金剛山系に接し、西は摂津国(殆どが八十島である)に接し南は葛城山系を堺として紀伊国に接する大国であったが、古代の河内国の北半分は「縄文海進」の時代には河内湾であった(『八尾市史』『富田林市史』『浪華古図』など)。縄文の中期以降は海岸線の後退が始まり、河内湾沿岸では砂洲の形成、河川の扇状地の形成などが始まる。河内湾は河内湖に変り、摂津の上町(うえまち)台地に当たる部分には淀川と大和川による砂洲が形成される(長柄砂洲)。上町台地の東側の殆ど海であった河内潟が平野と低湿地に変る。河内潟の南の縁は現在の八尾市の辺りまであったらしい。上町(うえまち)台地も砂洲の島々が次第に陸地化した。弥生時代前期の集落は淀川、大和川流域や河内潟沿岸の肥沃な低湿地に見られる。弥生時代の中・後期から集落は高地性の丘陵地帯に移動していく。鉄器の渡来が丘陵上の開拓や周囲の溝の構築を可能にしたためである。
河内国は『和名抄』によれば、十四郡からなっていた。北部には幡多(秦)郷、三井郷(仁徳紀十二年の条には淀川沿いの太間で茨田の堤を築く工事に新羅人を使役したことが記載されている)などがみられ、中河内の河内郡には豊浦(出雲井)、額田郷などがある。若江郡の弓削郷(八尾村)は物部氏の本拠地であり、弓削の道鏡の出身地で称徳天皇がこの地に遊行されて、百済の人々が歌垣をして慰めたという。錦部(にしごり)郷の錦部連(にしごりのむらじ)は百済国速古王(近肖古王)の後裔といわれる。渋川郡・巨麻(こま)郷の許麻(こま)神社(高麗王霊神・許麻大神、通称・牛頭天王)また、跡部郷(八尾市・太子堂など)に用明紀二年の条には物部氏の別荘があったと書かれている。大県郡(おおがたぐん)・鳥取郷の高井田横穴古墳群(百三十基以上)にある線刻画(六世紀頃)は古代朝鮮の王者(英雄)の誕生を描いた説話であるといわれている。更に秦氏のいた大里郷(平野の辺り)などがある。