一.古代の河内国(続き)
河内や堺に見られる、大規模な前方後円墳の古墳群を河内王朝(応神)の成立とみる説がある。五世紀の河内平野は中央部に河内湖を持つ肥沃な平野となり、古代国家の都市に相応しい土地となった。更にここは川と陸を経由する大和への交通の要衝であった。
摂津国の中で中河内についても見てきたので、ここでは南河内について見ることとする。南河内は志紀・古市・安宿・丹比の一部・石川・錦部の六郷で構成されていた。
一.藤井寺市の新羅神社
河内国の丁度真ん中あたりに「近鉄阿倍野橋駅」があり、そこから少し南に下がると藤井寺市である。大和から流れる大和川(旧・新とも)が八尾市の南、藤井寺市の辺りで、石川と合流する。石川との合流地点は現在では川を境にして北側は八尾市、南は藤井寺市となっている。大和川は大和の東部高原に発し桜井市や天理市を通り河内を経由して難波の海に注ぐ。古代の海人族は瀬戸内海から難波の海に到着して、大和川を遡って大和国へ入植したものと思われる。古代の大和川も現在の流れと同じく藤井寺市の辺りで南から流れる石川と合流していた。石川と大和川の合流地点近くの玉手山丘陵には十八基の前方後円墳が見られる。藤井寺市から羽曳野市にかけては古市・百舌鳥の大古墳群がある。応神天皇に始まる河内王朝の古墳(天皇陵)の一大集積地である。藤井寺市には允恭天皇、仲津媛皇后、仲哀天皇の各陵と古室山古墳。隣の羽曳野市には応神天皇、日本武尊白鳥陵、雄略天皇陵、来目皇子墓。和泉に属する堺市には仁徳天皇、履中天皇陵がある。履中天皇陵の南を百済川が流れている。仁徳天皇陵を中心に五十基にのぼる古墳が群在する百舌古墳群の壮大な規模と景観は壮観である
(1) 辛国神社
藤井寺市の駅の直ぐ近くにある。神社の入り口には「大阪皇陵」と書いた石柱が立っている。明治天皇の歌や「辛国神社」と書かれた碑がある。参道は広い石畳が100mくらい続く。両側には大木が繁り大きな石灯籠が立ち並んでいる。木造の両部鳥居を過ぎると石造りの明神鳥居。森の中である。更に70〜80m進むと社殿がある。拝殿は千鳥破風の入母屋造で唐破風の向拝を持つ。幣殿、渡殿、本殿と並ぶ。本殿は三間社流造。拝殿、幣殿とも銅板葺の屋根で白壁が美しい建物である。社殿は東向。
神社の説明板や『辛国神社縁起』によれば、祭神は饒速日命、天児屋根命、素盞鳴命の三神。饒速日命は瓊瓊杵命の兄(『古事記』)でかつ物部氏の祖神。天孫降臨に先立ち、天璽の瑞宝十種を授かり、大和建国の任務を受けて河内国哮ケ峰に天降りになった神である。天児屋根命は藤原氏の祖神。天照大神が天の岩屋戸に隠れた時に岩戸の前で美声をあげて祝詞を奏上した神。後、天孫降臨に随って日向国に降った五武神の一人。子孫は代々朝廷の祭祀を司った。しかし、この神は室町時代に合祀されたので古来の神ではない。素盞鳴命は天照の弟神。気性の激しい性格のため高天原から地上に追放された。そこで命は己の犯した罪を深く反省し困難に耐えて出雲の国に辿り着き、八岐の大蛇を退治した神であるという。当社の創建については、神社に掲げてある「辛国神社由緒」に「今から約千五百年前の雄略天皇の時代に創設された」とある。式内社。これは、『紀』に「雄略天皇十三年春三月、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とあることを根拠にしている。この地方を治めることとなった物部氏がその祖神である饒速日命(素盞鳴命の子神の大年神)を祀り祖神廟としたのがこの神社の創始であろう。社名の由来は異説種々あるが、物部氏の没後、同氏一族の辛国連が当社に深く係わった為に辛国神社と称するようになったようである。『新撰姓氏録』に「辛国連は神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也」とある。伊香我色雄命とは大国主命のことである。いわゆる出雲族である。
この辛国神社は相殿に品陀別命(応神天皇)、市杵島姫命を祭っているが元々は饒速日命であり、素盞嗚尊は明治に長野神社の祭神である「素盞嗚尊」を祀っているので産土神としては饒速日命(彦火火出見命)である。市杵島姫命は宗像の神で、三姉妹の一神であるが、応神天皇は誉田真若と金田屋野姫(尾張・海部氏の後裔である)の三姉妹を妃にしている。また、七世紀の天武天皇は宗像氏の娘を妃にしている。大国主命も宗像神の多紀理毘売命を妃にしている。市杵島姫命は木津川の白木神社でも祭神となっていた。長野神社については、藤井寺市のあたりはかつて「長野郷」といわれ『新撰姓氏録』に長野郷の渡来人に「長野連」がいる。長野連がその祖を祭った式内社、長野神社は当神社本殿に合祀されているが祭神は牛頭天王、素盞鳴命である。神社名は辛国氏(韓国氏)が祀ったところから付けられたというが、辛国神社の「辛」は「韓」あるいは「唐」である。随って朝鮮半島の「加羅」であり「新羅」である。中国については「大唐」(もろこし)と呼称されているので辛国神社は韓国(加羅国・新羅国)神社であろう。『姓氏録』の河内国未定雑姓の項に「大賀良は新羅国郎子王の後なり」とあることからこの神社は大賀良氏の祖神を祭ったともいわれている。境内に「辛国池の旧跡」の石碑がある。これは辛国池畔の記念碑で渡来の人々が潅漑用として造ったものであろう。南河内には今でも池が多く残っている。河川の氾濫と湿地帯であった名残である。従って、この神社は祖神とともに水の神を祭っていたものであろう。水の神を祀った新羅神社は全国的にも多くみられる。この地は元々、賀良国(加羅国)であり神社名も賀良国(加羅国)神社といわれたのかもしれない。