一.藤井寺市の新羅神社(続き)
『藤井寺市付近の史跡・遺蹟・名所の解説』によれば「大体、平安時代に入ってしばらくしてから、帰化人によって作られた氏神の祭神は全部といってよいくらい素盞鳴命に変わっている」とある。理由は良く判らないが、百済や高句麗の滅亡の後に渡来の人々は先住の新羅の神を祀るようになったのか、あるいは天照以外の半島の神である素戔嗚尊を祭神とすることにより、神社の守護をしたのであろうか。
(2) 葛井寺
辛国神社の前に葛井寺(ふじい)がある。藤井寺市の名称もここから来たのであろう。葛井寺はこの地方の豪族葛井氏の氏寺といわれている。葛井氏は百済系といわれている。話しがややこしくなるが神社は新羅系で寺は百済系いう。
寺は朱塗りの南大門(楼門)と瓦屋根の大きな金堂をもつが『縁起』によれば、葛井氏は応神天皇の時代(五世紀後半)に百済から当地に渡来して繁栄した。百済国第十六代辰斯王の王子辰孫(ちそ)(智宗)王の後裔である。
葛井寺は奈良時代に葛井給子が聖武天皇の勅願により創建し寺域はもと葛井氏の邸宅跡である。またこの寺は後に桓武天皇の皇子葛井親王の菩提を弔うため阿保親王により講堂の再建が行われている。
この新羅の神社と百済人の寺の関係は新羅神社と三井寺(園城寺)との関係に似ている。従ってこの様な関係は希ではなく各地に見られたのかもしれない。私は葛井寺を辛国神社の神宮寺か別当であったと考える。藤井寺市から羽曳野市にかけての一帯は百済系氏族が多く居住し、王仁一族、船氏、津氏など辰斯王や辰孫王の子孫が栄えた地である。何故新羅系の神社があったのであろうか。『記』の仁徳天皇の条に「秦人を役して茨田堤(まむたのつつみ)また茨田三宅を作り…難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(おばしのえ)を掘り、墨江の津を定めたまいき」とある如く秦氏一族が百済系氏族の入植以前に河内平野一帯に居住していたのである。
応仁朝に突如として古墳が巨大化する。河内平野に入植した応仁王朝の最大の課題は土木・治水事業でありこの事業を遂行する高度な技術者集団として秦氏一族が注目された。水野星四『古代の謎を歩く』を見ると、羽曳野市と秦氏族との関係を推測する一つとして現存する「月読橋」の由来に秦氏族が居住していたと判断される遺蹟がある、と述べている。なお葛井氏は『続日本紀』養老四年の条に白猪史(しらいのふびと)に葛井連の姓を給う、と見えるので葛井氏は元来白猪史氏であった。(『藤井寺市史』『辛国神社由緒』『葛井寺』『藤井寺市の神社』『大阪府神社名鑑』『藤井寺市付近の史跡・遺跡・名所の解説』外)
二.河南町の白木(新羅)神社
藤井寺市の南、羽曳野市、富田林市がある。この一帯は渡来の人々が多く住んでいた場所である。富田林市には錦織があり錦織(にしごり)神社(祭神は素盞鳴命)がある。百済郷と呼ばれた地域である。また古代のこの辺りは古市庄や大友庄があった。近江の志賀郡と同じである。佐備川に沿って南下すると佐備である。「佐備の漢人」の佐備であろうか。
河南町は奈良県葛城郡に近い。聖徳太子の伝承を持つ太子町や「近つ飛鳥風土記の丘」もある。河南町には今も白木という地名が多い。白木上、白木下池、白木小学校など。新羅人の居住地であったのであろう。白木神社の祭神は素盞鳴命。白木村の白木神社は明治四十年千早赤坂の「建水分(たてみくまり)神社」に合祀された。
古来白木三郷(白木・長坂・今堂)の鎮守は「牛頭天王社」で明治に白木神社と改名した、と『河南町誌』は記述している。正確には元々が新羅神社であったものが白木神社となりその後、牛頭天王社となった。明治に至り再び白木に戻ったということであろう。
大正八年、白木の地に遥拝所を設けて今も残っている。「遥拝所」と刻んだ石柱が立っている。神社の敷石や石積みの礎石が残っており、石の鳥居(北向き)と灯篭が建ててある。遥拝所から西に水分(みくまり)神社(地元では、すいぶんと呼ぶ)がある。なお境内には白木観音堂があったがこれも明治初に廃寺となった。『町誌』には次ぎの様に記されている。「明治維新以来、政府が神道を重んじ、府県社以下の神職は社司社掌の名を用い、地方長官から補命せられ、祭祀の制度は整ったが、由緒深い古社は社有財産がないため財産のある神社に合祀して祭祀を厳かにするよう指令が出された。一神社に三百円以上の基本財産が必要条件となった為である。大阪府指令、社甲第一一三八号。南河内郡白木村大字白木村社白木神社。 郷社建水分神社へ合祀の件…」。
白木神社が合祀された「建水分(たてみくまり)神社」は千早(ちはや)赤坂村水分にある。金剛山(こんごう)の麓である。宮司の子息である岡山真人氏が案内してくれた。合祀の白木神は本殿の左殿に祭られている。旧白木神社にあった石灯篭が二基、境内に運ばれて正面の鳥居の横にある。境内には神宮寺の跡がある。また摂社「多良(たたら)神社」がある。多々良(羅)は白木村にもあるが、多々良、多良は後に新羅や百済になる古代朝鮮南部の加羅諸国の中の多羅から来たものと言われている。
本殿は三棟あり中殿は春日造で祭神は天御中主神(高天原の主宰神)、左、右殿は流れ造。左殿は天水分神、罔象女神(みつはのめかみ)(共に水の神)―白木神社はこの社殿。右殿は国水分神・瀬織津媛神(天照の荒魂)である。本殿は西向き。大阪湾を向いている。主神は後世の祭神であろう。