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京都市の新羅神社(3)

京都市の新羅神社(その三)  

説明を頼りに現在の荒神町とその周辺を歩いてみたが見つからなかった。京都歴史資料館に問い合わせたところ丁重な回答を頂いた。「お訪ねの醒井通高辻北(現在の下京区荒神町)の園韓神社ですが、『京雀』(『新修京都叢書』の第一巻)、『京羽二重』(『同』第二巻)に、確かに荒神町に園韓神社を勧請したことが書いてありますが現在でも存在しているかは不明です。『京羽二重』には、現在も町内に残っている観音寺というお寺が管理していたとありますので観音寺に問い合わせてください。

なお園韓神社の本来あった地は現在とは別の所にあり、現在の二条児童公園のあたり(二条城北側、NHK京都南側)にあったとされます。平安京ができる前から当地にあったとされ、平安京ができてからは宮内省の敷地内で祀られていました。社殿は室町時代までは残っていたようですが、応仁の乱以降、史料に見えなくなります。

また、江戸時代、この地には京都所司代の下屋敷ができますが、「園韓神社」が祀られたという記録はありませんので、応仁の乱以降廃絶してしまったものと思われます。現在、公園内には源頼政ゆかりの鵺池や「玉姫大明神」という小社などがありますが「園韓神社」に関する史跡や石碑などはなく、正確な位置はわかりません」とのことであった。この説明にある公園は現在二条公園といわれ、公園内の北側、NHK局の前にある。
今は小さい神社が二社ある。

応神天皇陵一社は古朱色の明神鳥居(笠木のみ黒色)と流造りの社殿で小さいながら組高欄や登高欄などもあり東向き。社殿の扁額は「朝日大明神」、「玉姫大明神」、「鵺大明神」と書かれてあった。もう一つの社殿は北向き、方形造りの照り起り屋根で寺院のような建物である。紫の幕が垂れ下がっており、「奉納万木・平成六年一月吉日」と書かれてあった。

両社とも麻縄の紐を垂らしており、鈴や鰐口などが設けられ、更に生花が飾られていた。神社を守って参拝している人がいるようである。「園韓神社」は、平安京ができる以前から当地に存在し、平安京ができたあとも宮内省にあって大切に護られたこと、そして、応仁の乱で燃失したらしいことが判る。『新修京都叢書』第五巻には、「はじめ宮内省にあり、後に禁庭にうつる。いにしえ毎年春二月冬十一月丑の日これを祭る…今は此社なし、惜しかな…」とある。

『新修京都叢書』第二巻(京羽二重織留大全・宝暦四年・一七五四)にも「園韓神は洛陽醒井通高辻通上る町にあり。延喜式云、園神…大炊御門の北匣の西に有、延年中、長岡の移れし時、…神託あり、永く此所に留り帝都を守らんと…大内裏炎上の以後、此所に移されたり、いにしへは、二月十一月丑日祭礼ありと今本荒神といえり。観音寺 寿福院」と記載がある。

恐らく、応仁の乱に際しては御所でさえ京都の各地に避難していた時代であったので、乱のあとの社殿の再建はなかったのであろう。『京都・山城寺院神社大辞典』『京都市の地名』などには現在の上京区主税町にあるとしている。説明によれば、社地は「拾芥抄」宮城指図では、平安京大内裏・宮内省の西、「年中行事絵巻」(田中家蔵別本・鷹司本)では西北隅に見え、当町の北東付近に当たる、とある。
大内裏の宮内省は丁度今の主税町の辺りで、二条城の北、二条公園のあたりである。

(東京リース株式会社・顧問)






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