京都市の新羅神社(その三)
この神は『古事記』・神代の条に記載の大年神の系譜の神である。即ち「大年神、神活須毘神の女、伊怒比売を娶りて生みませる子、大国御魂神、次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神……」とある。従って『記』によれば、大年神は須佐之男命と大山津見神の娘、神大市比売との間に生まれた神であり、園神や韓神は須佐之男命(素戔嗚尊)の孫神ということになる。『群書類従』(「大倭神社註進状」)は、「園神社」の祭神は大物主神、「韓神社」の祭神は大己貴命と少彦名命でこれらの神は素戔嗚尊之子孫で疫を護る神であると記している。
当社の創建について『群書類従』は大神氏家牒を引用し「養老年中。藤史亦園韓神社を建て奉斎」とあり、藤原氏が養老年中(七一七〜七二四)に創建したと記述している。この記述からみて、藤原不比等は新羅(伽耶)と何らかの係わりがあったのであろうか。また、なぜこの地に建立したのであろうか。天皇家の祀る神であるが故に天皇家と同じ神を祀ったのであろうか。この神は先に見た如く、平安京以前から存在した地主神で、平城京内でも祭られた神である。宮中三六神中最古の神の一柱であろう。「往古の社殿は南北に二社あり、いずれも東向きで、正面一間、側面二間の春日造風であった」(『京都・山城寺院神社大辞典』ほか)という。園韓神祭も盛大に行なわれていたようである。『儀式』によれば、祭りは二月の春日祭の後の丑の日と十一月の新嘗祭の前の丑の日である。当日は早朝より神祇官人により準備が行なわれ、春は戌一刻、冬は酉三刻に至って内侍が着座して開始される。神部二人が庭中に賢木を立て、庭火をたき、大臣は召使をして歌人・神馬などを召す。御巫が微声で祝詞を述べ、笛琴を奏し、歌舞を行う。次に御神子が庭火を巡って、湯立舞を神部八人とともに舞った。この儀が北の園神、北の韓神の順に行われ、再び南で倭舞を行い、饗饌があって大臣以下退出の後、神祇官によって、両神殿前で神楽が行われた、という。宮廷神楽は、榊・桙・弓・剣をもって舞ったとされている。また、『百錬抄』によれば、大治二年(一一二七)二月十四日に大内裏南東部に火災が発生し、「園韓神社」などが焼亡した折に「園韓社」の御神体を取り出そうとした時のことを「神宝剣桙有」と記されている。剣と桙が御神体であったのであろう。剱や桙に霊力が宿ることは古くから知られており、その為に祀られたのであろうか、あるいは戦の神とみなされていたのであろうか。いずれにしても、大和の大王家に古くから伝わったものであろう。あるいは物部氏の宝物が大王家に集められたものであろうか……。神楽における韓神は内侍所御神楽の神楽歌の最後に歌われた。“三島木綿 肩にとりかけ われ韓神の 韓招ぎせむや 韓招ぎせむや 八葉盤を手にとりもちて われ韓神の 韓招ぎせむや 韓招ぎせむや”(『京都・山城寺院神社大辞典』『京都市の地名』『国史大辞典』)の歌をみると韓国(新羅)と結びつきが強いことがわかる。
2 荒神町の観音寺
観音寺のある京都市下京区の「醒ヶ井通」は堀川通の東側の道で南北に走る通路である。四条と五条の丁度中ほどにある。堀川高辻の交差点から近い。この通りに面して荒神町があり、観音寺がある。江戸時代の地図には「清荒神社」の名称で記載されている。素戔嗚尊を祀る「清神社」(広島)と「荒神社」が一緒になったような名称である。唐破風の向拝を持ち切妻、妻入り、瓦葺の屋根の建物がありその奥の本堂のような建物は入母屋風の瓦屋根、白壁造り。名称は寺であるが建物は神社のようである。建物全体が白壁の塀で囲まれている。塀の外に石灯篭のような物が立っており、「三宝大荒神」とかかれている。向拝の内側に麻縄の様な太い紐が垂れ下がり、紐の上には二個の鈴が架けられている。更に大きな提灯も架けられており、そこには「三宝大荒神」の文字が大きく書かれている。寺の前の駐車場の壁の上にも、大きな看板があり、朱色で「三宝大荒神」と書かれている。寺の案内板には天台宗の寺と書かれている。住職の中川氏に「この寺はかつて内裏に鎮座の園韓神を管理されている、と京都歴史資料館でお聞きしてきたのですが」と尋ねたところ「自分は知らない」とのことであった。そこで「ここは寺であるのに、三宝大荒神と書かかれていますが、お寺が神と表示しているのはどういうことですか」と聞いたところ、次の様な説明をしてくれた。「昔、攝津国(兵庫県)の箕面市の勝尾山から三宝荒神を勧請した。そして「清荒神」と称した。その後、「清荒神」は吉田口へ移ったが、同体の荒神が当寺に残り、「元荒神」と言われている。もともとの観音寺の境内は裏(東側)にある小学校の敷地も含まれていたので、現在の境内地は往時の三分の一の広さしかない」とのことであった。住職の話からすると、かつては東側に神社があり、その神宮寺として観音寺があったのであろう。荒神は通常は素戔嗚尊である。また、住職の説明によれば、「三宝荒神は三面の顔の神で、清荒神は一面の顔の神である」という。『京都大辞典』には「天台宗の寺で堤境山と号す。寺伝では延暦七年(七八八)最澄の創建という」とある。荒神町と観音堂については『新修京都叢書』第十二巻の「京雀巻第七」に説明がある。「寺町通革堂観音の北のかたより東へ入町をば荒神町と名づけて只一町あり其町の南に三宝荒神の堂あり其町の東は川原に出る吉田くろ谷みな此川原口よりゆく川原表に出れば東山を初めて北南の山々残りなく見え渡る其名所旧跡は京童物語に記せり荒神町の東の辻より南をさして町あり川原町通という二条より下にては角倉通という此筋に角倉が家ある故也」とある。