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京都市の新羅神社(5)

京都市の新羅神社(その三)  

観音寺が管理していたという「園韓神社」は、現在は確認することができない。しかし、観音寺が荒神を祀っていることからするとこの寺も新羅の神との係わりが強かったことがわかる。なお当時は唐橋通という通路もあったことも記されている。また後にみる智証大師勧請の「岩神神社」のある岩神通は堀川通を挟んで直ぐ西側にあるのでこちらの神社も平 安京の大内裏の中にあったと考えられる。


3 新羅明神を祀る岩神社

応神天皇陵「岩神社」(中山神社)は京都市中京区岩上通六角下る岩上町七四八に鎮座している。この神社は、曲亭馬琴編『増補・俳諧歳時記栞草』の中山祭(なかやままつり)の項に「中山祭は中の酉日。『神社啓蒙』京三条猪熊(いのくま)の辺にあり。祭る神、豊石(とよいわまど)、奇石(くしいわまど)命。
『明徳記』今、六角堂の南、猪熊の東に遷座あり。石上寺と云う。『兼邦百首抄』二条大宮岩神へ付たまう。中山大明神と申は是三井寺北の院にまします新羅明神これ也。素戔嗚尊。
『公事根源』永承五年(一〇五〇)六月十六日、神社を建立し、同六年十一月八日に従三位の神位を授(さずけ)奉らる。後冷泉院天喜元年(一〇五二)四月よりはじめて、官幣を奉らる。
云々。是、四月の中の酉日にや、三井寺において、五月五日、新宮祭を修す。是、新羅明神の祭なり」と記述されている。この神社を探すに際しまた「京都市歴史資料館」のお世話になった。親切な説明を頂いた。即ち。「岩神社はもともと、二条大宮に位置しましたが、この地は現二条城内であり、二条城建設(慶長七年・一六〇二)にともない現在地に移転したと伝えます。中山神社の称は公家の中山家邸宅の位置にあると伝えることによるもので、神社前に「中山内府威蹟地」と刻んだ石標が建てられています」と。そこで、四条堀川から岩上通を御池の方(北の方角)へ歩いてみた。しばらく歩くと左手に神社の鳥居が見えた。神社は西方に細長い形の境内をもつ。道路端の左側に中山邸の跡を示す「中山内府威蹟地」と刻んだ石標、右側に「中山神社」の石柱が建てられている。道路に面して獅子の形の石像があり石造りの明神鳥居には「岩上宮」の扁額があり、注連縄も懸けられている。「中山神社」と刻んだ石柱の右側に神社の説明が次のように書かれている。「延暦十三年(七九四)に桓武天皇の勅命により、素戔嗚尊を主神とし、朝夕、内裏の門を守護するという櫛石窓(くしいわまど)神・豊石(とよいわまど)窓神の二神を祀る社で、石神(いそがみ)(岩上)神社ともいわれる。また嵯峨天皇の冷泉院の鎮守社として崇められたと伝え、慶長七年(一六〇二)二条城造営により、現在地に移
転したが、天明八年(一七八八)の火災にかかり、現在の社は、その後再建されたといわれる。社名の中山神社はこの地が、鎌倉時代の内大臣中山忠親の邸宅跡であったためと伝えられる・京都市」。鳥居の背後の左右には石柱が建ち、格子のような形に石柱を組み合わせた塀がある。参道は平石を敷き詰めた巾一mくらいの道が三〇mくらいある。右手は白壁、瓦屋根、木造の社務所、正面と左手に社殿が二棟ある。正面の社殿は中山神社、左手は朱塗の明神鳥居二基と流れ造の本殿。中山神社の方は切妻屋根に四本の柱をもつ大きな門、その背後に鈴門があり、奥に流れ造の大きな本殿がある。本殿の組高欄の両側にも木造の二基の獅子像が置かれている。門の梁の上には大きな板が掲げられおり、昭和十八年十二月四日・奉納・狂言・鎧語・御田・福之神・子の日・七成子などの文字と人名が書かれている。正面の鳥居の背後に並んだ石柱には「石窓社」、「布留社」、「石上社」、「中山社」、「石窓社」の五社名が刻まれている。朱塗りの稲荷社の社殿もある。
神社の説明にある「櫛石窓神」、「豊石窓神」は『記』の天孫降臨の条に登場する神で、天石戸別神(あめのいわとわけの)、亦の名は櫛石窓神といい、亦の名、豊石窓神というとされ、この神は御門(みかど)の神なり(門を守る岩石の神)とある。同じ神を祀った「櫛石窓神社」が丹波国多紀郡篠山(ささやま)にある(現・兵庫県篠山町福井)。「境内には霊厳(みたまいわ)があり、高さ数丈……神井あり、福井といい御供の水に用いる」(『兵庫県神社誌』)とあり、この厳は上古に神が降った所いわれ、度会延経『神名帳考証』には、当社の神は内裏の各門の上に祀られており、当社が本社であると記されている。社殿の木像は三体あり櫛石窓命・豊石窓命・大宮比売命とされている。何れも古い由緒である。
 林屋辰三郎編『京都の歴史2』には「朱雀院の隼神、冷泉院の中山社……の例にならって、殿舎の東北に新日吉社、東南に今熊野社が鎮守の神として勧請された……」とある。また、『日本歴史地名大系・京都市の地名』によれば、「岩神神社跡(現上京区大黒町)町の南東、路地の奥に高さ一・七mほどの赤味を帯びた巨石が祀られており、これが明治維新前まで存在した岩神神社のご神体である。神社の創建年代は明らかでないが、巨石を本尊とする。」『出来斎京土産』(延宝五年)に、「女の乳の出ざるに、祈りぬれば、乳良く出るとて、乳母保母等(おちめのとら)深く信仰するという」とあり、巨石は授乳神としての信仰も得ていたようである。『京町鑑』(宝暦十二年)「此町東側に蓮乗院と云寺有、寺内に石神社有」とある。これが現在の岩神社と関係があったかどうかは定かではないが巨石を神体とするのは、古代の自然信仰と結びつき岩神と呼ばれた可能性は強い。上京区は御所や二条城などがある場所であるので神社や寺の移転が何回もあったことであろう。片岡英二『新撰京都叢書』には「中山神社、岩上通(いわがみどおり)蛸薬師にあり、本社は東面し、素嗚尊を奉祀す。岩上神社と号し、明治六年二月村社に列せられる。其中山社と称するは此地に中山忠親卿の邸宅ありし故なりと云」。柳町敬直『京都の大路小路』によれば、「岩上通、全長約一・九km、豊臣秀吉の京都改造によって開かれた通り。名称 は岩神(上)の(中山神社)に由来する。平安時代以降、この社は子育て神社として、京女に深く信仰された。同神社が母乳の神様として知られていたからである。この社には「乳汁漏出」の絵馬が多数神前に飾られていた」という。三井の新羅明神(素戔嗚尊)も時代により随分と変質したことが判る。

(東京リース株式会社・顧問)






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