京都市の新羅神社(その三)
4 聖護院の新羅神社
江戸時代の京都市の地図をみると、聖護院は現在の境内よりも広い境内をもっていた。従って、聖護院の新羅神社は現在の積善院の辺りに鎮守神として鎮座していたようである。
聖護院は大きな瓦葺の山門で山廊がある。高い白壁の美しい塀が境内を取り囲んでいる。山門の前に大きな広場があり、二〜三m巾の平石を敷き詰めた参道がある。門の前には「聖護院門跡」と刻まれた大きな石柱が建っている。駐車場には緑の地に白抜きで、「役行者朱印巡り」と書かれた幟が何本も立てられていた。門の正面には菊の紋章、柱には「総本山聖護院門跡」「近畿三十六不動尊第十八番霊場」と書かれた板が掲げられていた。門跡寺院は大抵同じであるが、聖護院も寺の入り口がわかりにくい。社務所が入り口で「どうぞ二階で拝観して下さい」といわれ、二階に案内していただいた。社殿は宸殿、本堂、書院、小書院、北御殿がある。仮皇居の上段の間、御茶室、御書院など皇室ゆかりの建物が現存している。本尊は不動明王。宝物になっている智証大師作(伝)の本尊不動明王二体(黄不動ではない)、智証大師像、円珍入唐求法目録、熊野曼荼羅などの重要文化財を持つ。智証大師の像は三井寺にある像に似ている。聖護院の創祀については当院発行の『史跡・旧仮皇居、山伏の総本山・聖護院門跡』や『聖護院門跡とは』などに解説がある。『新修京都叢書』(第五巻・七巻)の説明によれば概略次の通りである。
黒谷の東、平安神宮の北に位置する。南向き。智証大師(円珍)の草創になる天台寺門宗の門跡寺院。本山修験宗の大本山を兼ねる。本尊は不動明王。聖護院・旧皇居として国の史跡である。中頃より三井の御門主法親王御住職にて、三井門主の随一なり。当院初めは常光院を号した。円珍の後、中興の聖・増誉僧正の代に一寺を創したのが聖護院の創始といわれ、三井の長吏なり。また熊野三山別当也。是の故に此の門は修験道を兼ねて、修験道を統括した。寛治四年(一〇九〇)一月の白河上皇の熊野詣に増誉が先達し、熊野三山の検校職に任ぜられ、その法務を営むために白川院を創したのが当院の直接の起こりであるという。二世、増智、三世、覚忠が入室。覚忠の時に聖護院を号したという。四世の門主に後白河天皇の皇子・静恵法親王が入ってから宮門跡となり、以後七世尊円法親王以下代々法親王が門主として入室した。寛元三年(一二四五)一二月十八日付の山城国禅定寺寄人等申状には「聖護院御所」とある。応永一九年(一四一二)一月に「今日御所様(足利義持)聖護院へ渡御」とあり、文明十三年(一四八一)には夫人日野富子と不和となった足利義政が出家するために当院に入室。安永八年(一七七九)後桃園天皇に世継ぎがないまま死亡されたため、聖護院へ入寺されていた先の宮・師仁親王が光格天皇として御所へ入る。九年後の天明八年(一七八八)の大火災により、京の町が焦土と化し、御所も炎上したため光格天皇は聖護院に避難、約三年間仮皇居と定められ宸殿・上段の間にて政務を行った。寛政十一年(一七九九)聖護院の役行者に神変大菩薩の諡号が贈られた。更に安政元年(一八五四)の御所炎上の時にも孝明天皇の仮皇居となった。当院は本山修験宗(山伏)であるが、修験道は今からおよそ千三百年前、役行者・神変大菩薩(六三四〜七〇一)が開祖の宗旨、その後十代の山伏を経て、天台宗第五代座主智証大師円珍(八一四〜八九一)に伝わり熊野那智の滝で千日間の修行を行い、熊野より大峯入峰修行を行った。その大師の後を継ぎ白河上皇の護持僧であった三井寺の増誉大僧正も大峯修行を行い、白河上皇より、この地に聖を護った寺即ち聖護院を賜った。当院は何回かの火災にあった。応永二年(一四六八)の兵乱により焼失し愛宕郡岩倉村長谷(現在の左京区)に移る。文明一九年(一四八七)にも放火で焼失。その後、豊臣秀吉により上京の烏丸上立売御所八幡町(現、上京区)に移され長谷の地は聖護院門跡の山荘となった。元和六年(一六二四)二月上京の大火で殿舎焼失。再建後の延宝三年(一六七五)十一月一乗油小路よりの出火で類焼、翌年に市中より現在の地に移建。明治政府は神社から仏教色を放逐すべく明治六年(一八六八)の「神仏分離令」を発布、そのため、明治維新で門跡号は廃止された。ついで、権現、大菩薩、本地仏などの神仏習合を廃止の「神仏判然令」を発布。明治五年、修験道は太政官から廃止を命じられ修験者たちは天台、真言の両宗派へ帰入となった。明治八年には聖護院の旧修験道寺院三十寺が廃寺となり、復活したのは、第二次大戦後のことである。聖護院門跡領として、聖護院村があった。明治十年代の『京都府地誌』によれば、一三九戸六〇五人、摂社として熊野神社があった。
① 聖護院境内にある新羅神社
『新修京都叢書』(第一五巻)に「新羅明神の社今亡し。その地は聖護院築垣の東に社あり欅の老木あり、此神は三井の護法の故に増誉僧正の勧請なり……」。また、『新修京都叢書』(七巻)の「新羅杜」の項には「聖護院の築垣の東頬(ひがしつら)にあり。中に新羅明神の小祠あり。是三井寺の護法神なるがゆえ、増誉僧正の勧請なり」とあり、同書の巻五と十にも「黒谷道の北、聖護院の杜の東に在り、寛治年中聖護院の祖増誉僧正新羅明神を斯の所に勧請す。今、社は絶えて杜の名となれり。聖護院の森は明治までは、鬱蒼とした森で、中に御殿があるところから森御殿と呼ばれていた。聖護院村の南に位置しているが、この地を聖護院が領有していたことによる名で南西にある熊野神社は平安時代に聖護院の森の鎮守として祀られ、院家の若王子神社、新熊野神社(伊弉諾尊・伊弉冉尊・速玉男命・天照大神・事解男命。近江の三井寺に勧請された熊野神社とともに寺門派が主導権をもつ天台宗本山修験鎮護の神社とされている)とともに京都熊野三山として崇敬されていたが、応仁の乱で焼失、一六六六年、聖護院道寛法親王により再興された」とあるが、史料では聖護院の新羅神社は既に焼失したとあるが、当院をお訪ねした時に宮城泰年・本山修験宗・宗務総長(現在・門主)にお目にかかり境内のご案内をしていただいた。現存の「新羅社」も拝見させていただいた。