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京都市の新羅神社(7) 京都市の新羅神社(その三)
宮城総長の話によれは、「新羅社は三井寺の長吏増誉の開基。寛治四年(一〇九〇)。聖護院はかつて、今の場所にあったが、応仁の乱(一四六七〜一四七七)により岩倉(長谷・現左京区)に移る。その後、足利幕府の時代、足利義教、義政の入室があった。文明一九年放火で焼失。秀吉により烏丸八幡町(現・上京区)に移転。元和六年(一六二〇)二月三十日の上京の大火、延宝三年の火災で類焼、延宝四年現地に移った」という。案内していただいた「新羅神社」は境内の東側の庭園となっている東南の隅に小さな祠であった。大きく太い、樟の木の間に大きな石を組み合わせた1m四方の土台がありその上に銅板、流れ造の木造の社殿がある。祠は小さいが屋根には千木や堅魚木などが付けられている。社殿の中には瓶子や高杯など神事の用具が備えられ、榊が飾られ、扉の中には木像の御神体があった。新羅社のもつ新羅明神の画像は二枚あり、少し太り気味の明神像であった。現在の社は寛政十六年(一七九四)に再建されたもので、かつて東堀の外の明神の祠を祀っていた川辺であるとのこと。恐らく火災にあう前の社殿は大きな社殿であったと思われる。また、宮城総長が現在の「新羅神社」の祠を調べたところ、二尺あまりの小刀(江戸時代か)が見つかったとのことで、拝見させてもらった。弘化(一八四四〜一八四七)の年号がみられ、「新羅太神・・伏・・」の文字が判読できた。新羅明神には古くから剣を供える習慣があったのでその名残であろうか。
5 八坂神社(祇園社) 神社の創祀と祭神 社殿は東山区祇園町にあり素戔嗚尊を祀る新羅系の神社である。八坂神社の名称は明治以降のもので、それ以前は祇園社、感神院と呼ばれた。創祀の年代は明確でない。松浦道輔『感神院牛頭天王考』(文久三年・一八六三)に、社伝として、「八坂神社は貞観十八年(八七六)播磨国広峰山から牛頭天王を勧請したことにはじまる」としているが斉明天皇二年(六五六)高麗調進副使伊利之使主が再来した時に新羅国牛頭山に座す素戔嗚尊を愛宕郡八坂郷に祀り、天智六年(六六七)社殿を造営し(社号・感神院)八坂造の姓を賜った(『八坂郷鎮座大神之記』)ともいわれている。この辺りには高麗人が居住し(伊利之使主の後裔か)、天神を祀っていたといわれている。何故、高麗人が新羅の神を祀ったのかという疑問がでるが、天神は土着の農耕の神であるので不思議はない。ただ、祇園の天神がなぜ素戔嗚尊かという疑問が残るが通常は素戔嗚尊の天神の荒御霊が雷雨をもたらす根源として神格化されたことに由来し、それが慈雨と結びつき農耕の神と結びついたといわれる(谷川健一編『日本の神々』ほか)。 祭神と祀った人々 神社発行の説明書によれば、祭神は素戔嗚尊(中御座)、櫛稲田姫命・神大市比売命・佐美良比売命(東御座)、八柱御子神(八島篠見命・五十猛命・大屋比売命・抓津比売命・大年神・宇迦之御魂神・大屋毘古神・須勢理毘売命)(西御座)稲田宮主須賀之八耳神(傍御座)である。 (東京リース株式会社・顧問)
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