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京都市の新羅神社(8)

京都市の新羅神社(その三)  

『新撰姓氏録』に、八坂造は狛国人「留川麻乃意利佐」(意 利佐は伊利之である)の子孫で、後裔の鳥井、栄井、吉井が 「宿禰」、日置、和が「造」の姓を賜って、山城、大和、摂 津、河内に繁衍したことが見える。『日本紀略』天長六年(八 二九)の条に紀百継が愛宕郡の丘一処を賜って祖神を祀る地 となすとあり、更に『建内氏本系帳』には、「感神院是也」 と追記している。これは祖神廟である。ここに出る紀氏は武 内宿禰系の古名族で、百継は八坂造真鉏の女を妻として八坂 造を継いだという。その累代の孫、行円は感神院社務執行と なり裔孫代々宝寿院を継いで明治に至っている。また、愛宕 郡内には出雲系の式内社二社があり、『正倉院文書』神亀三 年(七二六)の「山背国愛宕郡雲上(雲下)里計帳」によっ てこの地域へ出雲系氏族が進出していたことが判る。素戔嗚 尊の神徳の一つに水神=農耕神がある。加茂川の水神を祀る 地としては格好の地である。しかも、近くに、崇峻二年(五 八九)創建の八坂法観寺(この寺が祇園社の前身ともいわれ ている)があり、知恩院古門前に、祇園神降臨の地と伝える うりゅういし 瓜生石があるなど、出雲系の素戔嗚尊を祀る小祠を想像す るのに不自然さはない(『八坂神社』)。祇園の神は素戔嗚尊 であるが、平安時代以来、神仏習合により、牛頭天王とも呼 ばれるようになる。即ち、素戔嗚尊は牛頭天王、櫛稲田姫命 は婆利采女(龍王の第三女)、または、少将井、八柱御子神 は八王子とされた。法華経の影響が見られる。


牛頭天王と素戔嗚尊

牛頭天王の名は韓国語のソシモリ(曾尸茂梨=新羅の都) に由来するとされる。このソシモリは素戔嗚尊が居した新羅 の都とされる(『日本書紀』)が、ソシモリはソシマリまたは、 ソモリともいい、韓国語の牛(ソ・ソシ)頭(モリ)にあた り、「牛頭」または「牛首」を意味するという。韓国には江 せんだん 原道春川に、牛頭山があり、そこでは熱病に効果のある栴檀 を産したところから、この山の名を冠した神(または仏)が 信仰されてきた。しかし、これには異説(韓国の崔俊植教授) があり、「ソシモリ・ソモリ」の「ソ・ソシ」は高くあがる とか、柱の意味があり、「モリ・マリ」は頂の意味であるに 過ぎないという。むしろ、『魏志』韓伝にある「蘇塗」に通 じるという。諸国に特別の聖地があり、そこには、蘇塗とな づけた大木を立て、鈴鼓をかけて鬼神を祭る。逃亡者がこの 地に逃げ込めば、これを追うことはしない、というもので、 五〜六世紀の三韓時代の新羅の習俗で、「花郎」制度による ものが日本に持込まれたものであり高い木の頂に鈴や太鼓を 懸けて聖地の標示としたものであるともいわれる。この風習 は日本にも古代からある。ここでは高い木が神木でそこに迎 えた神が素戔嗚尊であった。祇園の神を素戔嗚尊とした所以 が『備後風土記』に蘇民将来の説話として記載されている「昔、 北の海に居た武塔神が南海を旅して・・吾は速須佐雄能神な えきくましゃ り・・」。備後国の疫隈社の由緒である。『釈日本紀』には「こ むとう れ即ち、祇園社の本縁なり」としている。牛頭天王には武塔 しん 神という名称もある。

疫神社櫛稲田姫の少 将井とは、井戸の神であり、井戸の 中の龍女であり、今御前とも呼ばれ る。龍王の娘を蛇毒気神という蛇体 の神としている。主神の牛頭天王も 本来は龍体の神であったらしい。『釈 日本紀』に「祇園の神殿の下に龍宮 に通じる穴があると古来伝えられて いる」とある(社務所で聞いた所、 実際にあるという―龍宮に通じているかは別として)。祇園 社の信仰は龍神の住む池や井戸、泉などがあり、その中に龍 神が住むという龍神信仰であるらしい。

平安京を造る際には 陰陽道による四神相応の地を選んでおり、中でも「風水」の 理にかなった場所を龍の体にみたて、そのツボに当たる場所 に龍穴があるというので、そこに大極殿を造ったといわれて いる。四神の中の青龍の位置は東山であり、そのツボにあた る龍穴の場所が祇園社の地であるという(少将井は祇園の古 いお旅所の一つ)。更に『伊呂波字類抄』の祇園の項に牛頭 天王の因縁は「天竺より北方に国あり・・、其の中に園あり、 名付けて吉祥といい、其の国中に城あり、其の城に王あり、 牛頭天王又の名は武塔天神という。その父の名は東王父とい い、母の名は西王母という。その二人の中に生まれし王子を さから 名づけて武塔天神といい、この神王が沙竭羅龍王の三女婆梨 采女を后として八王子を生んだ」とある。また、牛頭天王は てんぎょうせい 中国の辟邪神、天刑星の属性をもっており、天刑星は道教 の神で疫神をとって食らうと信じられていたので、怨霊退散、 疫病厄除去を祈るために道教の神とも結びつくこととなった という(『八坂神社』ほか)。このような形で日本古来の高い 木や森に神が宿る信仰が、渡来の各種の信仰(仏教、道教、 陰陽道など)と混ざり合って本来は同じではないものが、神 仏習合の影響もあり、素戔嗚尊や牛頭天王、武塔天神などが 同一神となり、疫を除く為の祇園信仰となったようである。


龍神信仰

龍は中国では帝王の象徴であり、最高の祥瑞とされた。そ れが、海人族により日本にも伝えられて、海の神となり、龍 宮や龍神となった。龍は新羅国との繋がりも強い。『三国史 あだつらにしきん 記』の新羅第八代阿達羅尼師今(在位一五四〜一八四)の十 一年(一六四)春二月、「龍が王都に現れた」とあり、『三国 遺事』の処容郎・望海寺の項には、第四十九代、憲康大王(在 位八七五〜八八六)が、開雲浦(今の慶尚南道蔚山)に遊ん で帰る途中・・にわかに雲と霧がたちこめ道さえ見分けられ なくなった。日官(気象庁の役人)がこれは東海の竜の仕業 であるというので、竜のために近くに寺を建てた。望海寺と いう。東海の竜は喜んで、王の前に現れ、舞い、音楽を奏で た・・竜王の子の一人、処容郎が大王の政治を補佐した。国 の人々は処容の姿の絵を門に貼って、邪鬼を追い払い、幸運 を迎え入れるようになった。という話と王が山神の舞を真似 て舞った。人々はその舞を御舞山神と言い伝えたという話が 記載されている。新羅は仏教が盛んで寺が沢山ある。龍神と かかわりのある寺が多く、新羅王朝も古くから龍神信仰を持 っていた。第三十代文武王(在位六六一〜六八一)が東海の 中で護国の大龍となり、仏法を守護する話は有名。

(東京リース株式会社・顧問)





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