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京都市の新羅神社(9) 京都市の新羅神社(その三)
龍神は水の神であるばかりでなく、疫病退散の神である。農耕、水、井戸の神などとの結びつきが強かったが其の後、疫病除けの神となり、厄払いの神となり、祇園の御霊会(祟り神の鎮圧)の祭事となっていく。『紀』の天智天皇九年(六六九)には山御井(やまのみい)の傍(ほとり)に、諸神(かみたち)の座(みまし)を敷きて、幣帛(みてぐら)を班(あか)つ。中臣(なかとみの)金連(かねのむらじ)、祝詞(のりと)を宣る。と記載がある。近江の園城寺(三井寺)である。山御井は長等山の三井寺の泉地であり、幣帛(みてぐら)は神に捧げる幣帛。中臣金連は鎌足の従兄弟で、壬申の乱で刑死。朝廷の祭事に中臣氏が祝詞をのべることは、役割であった。この泉池にも龍神の伝承が残っている。なお、八坂のお旅所は元々神社の祭神が最初に出現した場所である。日本海沿岸の地方では寄神信仰で海の彼方や海中から神が出現する伝承が多くある。 6 実相院(じっそういん)・大雲寺と新羅神社実相院 京都市の北部(現在の左京区)、旧の内裏の外に岩倉村があった。岩倉村は岩倉盆地の中央西側に位置し、北は長谷(ながたに)、東は中・花園・高野、南は松ヶ崎、西は幡(はた)枝(えだ)の各村に接し、『天保郷帳』には北岩倉村と記されている。岩倉の名称は、古代の磐座(いわくら)信仰によるものといわれ、その形跡はいまも山住(やまずみ)神社(旧岩座大明神)に伝えられるが、伝承によれば、平安京が造営された際、京の四方の山上に一切経を納め、東西南北の名を冠する四つの岩蔵が設けられた。 実相院の北に園城寺(三井寺)の別院である大雲寺があり岩倉村の北山石蔵明神祭(九月十五日)の神輿の渡御には寺の僧侶も加わったといわれている。岩倉の実相院は京都の地下鉄烏丸線の終点国際会館からタクシーで十五分くらいのところである。実相院では住職夫人の岩谷さんが案内をして下さり智証大師所縁の品々も拝観できた。 大雲寺 大雲寺については天禄二年(九七一)の創建で日野中納言文範が真覚を開祖として創建した園城寺の別院で本尊は行基作の十一面観音と伝え、元内裏に安置されていたものを藤原時平が相伝し、その室明子が勅により当寺に移したと云われる。(『京都市の地名』ほか)しかし、『新修京都叢書』山州名跡志によれば開基は智証大師門下の智弁僧正で洛北の天に紫雲聳える所に白髪の老尼が現れ、ここは現世観音菩薩降臨の霊地なりとのお告げがあったのでこの霊地に伽藍を建立したと記載している。大雲寺は最盛期には六堂宇を備えた壮大な伽藍であつたと記されているが、現在はその面影はない。あまり広くない境内に墓と寺院の面影のない家屋が一棟、小さな池の中に堂宇が一つあるのみである。 大雲寺の新羅明神社 新羅神社については『新修京都叢書』(山州名跡志巻之六)に記録があり、岩蔵山(がんぞうさん)大雲寺院号実相院の項に新羅(しんら)明神社(みょうじんのやしろ)と八所(はっしょ)明神社(みょうじんのやしろ)にそれぞれ新羅明神が祀られていることが記述されている。その中で、新羅明神ノ社は「堂の乾(いぬい)方東向きにあり」。(堂の北西にあって、社は東向きであつたというが今は何もない更地)。更に「三井護法神ナルヲ以て智弁僧正勧請セラルル也。神伝別巻ニ見ヘタリ」とある。(三井寺の守護神である新羅明神を智弁僧が勧請した。智弁は諡号で元の名は余慶。第二十代天台座主。)大雲寺の池の中にある小さな堂宇は形ばかりの平屋建ての建物であるが、入り口(普通の家の引き戸)の戸の上部に「両願堂」と書かれた板があり、左の柱に鎮宅妙見、右の柱に不動明王と書かれた木の札が架けてあった。住職と思われる人に「新羅明神はどこにあるのですか」と訊ねたところ「池の中にあるお堂の中に祀ってあり見せられない」とのことであった。記録にある新羅明神をこの目で確認することは出来なかった。しかし、鎮宅妙見として祀ってある新羅神は九州(特に熊本県)で見ることができた。同じものであろうか。 (東京リース株式会社・顧問)
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