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京都市の新羅神社(11)

京都市の新羅神社(その三)  

由緒 当社はもと山住神社に祀られていた北岩倉の産土神、石座明神を天禄三年(九七一)円融院帝御願所大雲寺建立の節、鎮守社として勧請されたのが始まりである。長徳三年(九五七)四月十八日神託により高徳明神七所を勧請し八所明神と号する。後、処々より影向の霊祇あり、之を加えて西社に十二所明神を祀る。以来、鎮守社は連綿一千余年岩倉の産土神として尊敬されてきた。天文一五年(一五四七)兵火に罹り社殿焼失、同二十二年再興される。現社殿は天正二十年(一五九二)三月造営、明和三年(一七六六)改造営されたもので、社殿階前の擬宝珠(ぎぼし)に天正二十年の年号が銘刻されている。また石灯篭にも慶長一九年(一六一五)の銘が刻されている。
 例祭は十月二十三日未明、暁闇の松明神事から始まる。神楽殿(拝殿)の神輿二基の見そなわし給う中、神前の灯火を雌雄の大蛇になぞらえ、大松明に点ずれば、中天まで燃えさかる豪壮な火祭りとなる。大松明が燃え尽きた夜明けには、神輿が氏子各町を巡り、御旅所(山住神社)へ向う。この松明神事は京都市無形文化財に指定されている。
 この説明文から、ここに祀られている新羅明神は長徳三年(九五七)に勧請されていることがわかる。山住神社の例祭は旧九月十五日に行われ「北山石蔵明神祭」と呼ばれていた。神器を頭にのせた村の新婦の尻を、小さな枝木で打つ受胎のまじない行事で、尻叩き祭として有名であった。明治以降は十月二十三日に変わり、祭りも現岩座神社を中心に行われる。前夜祭では、雌雄の大蛇の形をした松明を点じる行事がある。山住神社は岩倉西河原町にある。

 智弁水閼伽井(あかい)

 また、実相院の裏には智弁僧正が設けたといわれる閼伽井がある。山の麓に岩場に囲まれた池があり、池の奥に石の祠が祀られている。周囲は竹の瑞垣が作られている。傍らには入母屋造の閼伽井堂がある。十一面観音が安置されていると言われる。一名、智弁水とも言われ、智弁僧正が霊水を求めて閼伽の勤行を修めたといわれ、不増不減の井と称されてこの水は園城寺の御井に通じているといわれている。一説に文慶法印の夢に跋難陀龍王降りて曰く「この地に名水あり。汝に与うべし」と左の袂を以って大地を撫すと忽ち霊水湧出。僧正念珠をもって水に入れられるに御井に湧き出でたといわれている。狂疾・眼病に効ありと言われ、古来参篭服用し、祈願を籠めたといわれている。


7 修学院、赤山の麓にある赤山大禅院と新羅神社

 赤山大禅院

 修学院離宮の森の中にある比叡山延暦寺の別院。この辺りは比叡山の西側に当たるため、西坂本と言われ、滋賀県の琵琶湖西岸の坂本は東坂本といわれる。寺門宗(三井寺)の新羅明神に対して、山門(延暦寺)の守護神は日吉山王神と赤山明神である。赤山明神も新羅系の神といわれる。宝ケ池の東、修学院離宮の北側にあたる。宮本武蔵で有名な一乗寺下り松が近い。白川通から修学院の方へ通じる道路がある。この山裾の道を雲母坂と呼ぶ。そして、この付近一帯は小野の里と言われたようである。雲母坂(きららざか)へ続く道から赤山に向って真っ直ぐな道が続いている。道路の入り口に大きな古い石の明神鳥居がある。柱は古くて途中で繋いである。石の扁額が鳥居にかかっている。朱色で赤山大明神と書かれている。道路(参道)が尽きると石段が森の中へと続いている。石段をあがると高い石灯籠が二基と大きな提灯が二つ吊り下げられている。提灯には赤山大明神と書かれ菊の紋が書かれている。石段を登り、境内にはいる。正面に拝殿がある。四間の間取りで大仏様の屋根を持っている。瓦葺。正面の梁の所には七福神の描かれた額が架けられている。柱には「皇城表鬼門」の板がかけられて、梁の下には簾がかかっている。拝殿の背後に陰陽道祖神赤山大明神(おんみょうどうおやかみせきざんだいみょうじん)の社殿がある。金堂様式の建物と奥に切妻式の建物が造られている。これらの建物は朱塗りの板塀で囲まれている。本殿と思われる建物には五色の幕が垂れ下がっている。高欄の上には朱色と金色の配色された狛犬(獅子)が置かれている。赤山大明神の背後に十六羅漢や三十三観音の石造が建っている。絵馬所を過ぎると福禄寿殿があり、隣に御朱印所がある。福禄寿殿は折衷様式の建物で向背がついた屋根を持っている。御朱印所の右に石造の明神鳥居と黄色や緑色をした狛犬が置かれている。

 赤山禅院の由緒と新羅明神

 西坂本の赤山明神は慈覚大師円仁が入唐求法の帰途、中国山東半島の新羅坊(新羅の商人の居留地・朝鮮の僧侶であると偽って中国入国を企てた円仁が、唐国から退去を命じられた時に保護してくれたのが新羅坊の人々であった)から新羅船に乗り能古島に泊まり、鴻臚館に帰ったのは承和十四年(八四七)であったが円仁は入唐の始めから新羅人に助けられ、在唐中も新羅人の中に潜り込み、仏教弾圧の嵐の中でも新羅の人々に助けられ、帰国に際しても無事送ってくれたのは新羅の商人たちであった。日本国は円仁の在唐中に新羅と国交を断っていた。更に、円仁は赤山新羅坊の新羅寺・赤山法華院で新羅仏教を学んでいる。円仁は「声明は新羅の声明を第一とす」として、新羅声明を天台声明として取り入れ、今日に続いている。帰国後、円仁は新羅人が祀っていた赤山明神を勧請すべく努力するも実現せず、弟子の安慧が創建したものである。境内の案内板には「仁和四年(八八八)に天台座主安慧が慈覚大師円仁の遺命によって創建した天台宗の寺院である。本尊の赤山明神は慈覚大師が中国の赤山にある泰山府君(ふくん)(陰陽道祖神)を勧請したもので、天台の守護神である。後水尾上皇の修学院離宮御幸の時には、上皇より社殿の修築及び赤山大明神の勅額を賜った。御神体は毘沙門天に似た武将を象る神像で延命・富貴の神とされている。この地は京都の東北表鬼門に当たることから当院は方除けの神として人々の崇敬を集めている。また赤山明神の祭日にあたる五日に当院に参詣して、懸取りに回るとよく集金ができるといわれ商人たちの信仰も厚く俗に五日払いといわれる商習慣が出来たと伝えられている。閑静なこの地には松、楓が多く秋には紅葉の名所として人々で賑わう。京都市」とある。
 境内の楓の木々の間を抜けて鳥居をくぐると登りの石段があり、金(こん)神社に着く。この神社は社務所の人の話によると、家を護り、家に金具を打つことを防ぐ神であるという。しかし、拝殿の前にあった京都市が造った神社の案内図には「金神社」はなく、この場所には左側の社殿に八幡大菩薩、天照皇太神宮、春日大明神の三神、右側の社殿には十禅師権現、住吉大社、新羅大明神、賀茂大明神、平野大明神、西宮大明神、松尾大明神の七神が祀られている様子が描かれている。何故金神社に変えてあるのであろうか。この中の新羅明神社は延長二年(九二四)二月創建という古い由緒を持つ(『園城寺伝記』)という。『京都の地名』や『京都・山城寺院神社大辞典』などにも、当禅院の末社には西宮夷、十禅師、春日、松尾、住吉、賀茂、新羅、平野の八神が祀られていると記載がある。


8 北白川にある北白川天神宮

 天神信仰と国造りの神

 白川通を南に下る。かつて白川村があった場所で比叡山越えの山道(京都から近江へ通じる)の入り口にあたる村である。神社の前には白川の清流が流れている。北白川は白川の扇状地に出来た村で地名は白川の北に出来た村ということであるという。この地域は白川石の産地としても有名であり、北白川縄文遺跡群は京都盆地にある最大級の遺跡である。また北白川の石仏も鎌倉時代からのもので庶民の信仰が厚かったという。宮司の大嵜氏にお目にかかり、資料をいただいたが、現在作り直しているので、作成次第送ってくれるという。神社は山の麓の丘陵地に存在する。少彦名命を祭神とする北白川の産土神である。創建の時代は不明であるが、もともと、この地の農耕神で、天神信仰と結びつき天神を祀ったのが始まりであろうという。延喜八年(九〇八)銘の黒鉾があり、疫病流行に際し、御霊会に参加、宮中より賜ったものと伝える。八坂神社と似た由緒である。神社はもと、宮の前(現北白川久保田町)にあったが文明年間(一四六九〜八七)足利義政の発願で現在地に移ったという。明治以前は九月十日が神幸祭、十三日が還幸祭で、神輿が一基出されたが、その後十月二十日、二三日に変更された。三組の氏子が夫々一ノ鉾、二ノ鉾、三ノ鉾を祀り、かつては宮座組織による当家制で神鉾を奉祭した。神事も古風が残り、祭りのご飯の基部に巻く藁を妊婦が腹部に巻くと安産すると伝え、受けた藁の節が奇数なら男子であるともいったという。また一月二十日の(現一月十五日)のお弓式は「上寺」「下寺」二つの組に分かれて行われる神事である。近くに北白川廃寺跡があり、近くに白川瓦窯跡が四基、丘陵地にある。いずれも登り窯である。これらの窯業や石工などと縄文の遺跡を考えるとここの白川は白木の後ではないかと思われる。

(東京リース株式会社・顧問)





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