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三重県の新羅神社(2)

2.亀山市の忍山神社と布気神社

  古代の亀山地方

 亀山市は南を伊勢湾に注ぐ鈴鹿川、北は安楽川(東隣の鈴鹿市で鈴鹿川と合流)に囲まれた場所にあり、西隣の鈴鹿川沿いに関町がある。ともに東海道の宿場町であった。特に関町は古代三関の一つである鈴鹿関があった所で町名の関はそれに由来する。関町の宿場の中心の新所、中町、木崎は現在も古い面影を残している。この鈴鹿関は壬申の乱(六七二)の際、大海皇子(のちの天武天皇)が、鈴鹿、不破の関を固めたことにより、歴史に登場する。宿場の両端に追分があり、西の西追分は、鈴鹿峠を越える東海道と奈良に通じる伊賀街道(伊賀上野・賀茂、木津を経て大和に至る)に分かれる。分岐点の関所跡には石柱があり「ひだりいかやまとみち」と刻まれている。東の入り口にあたる東追分は東海道と伊勢別街道(伊勢街道を経て伊勢神宮に至る)の分岐点である。ここには伊勢神宮を遥拝するための大鳥居がある。


 亀山地方の新羅の集落

 亀山市や関町を通る東海道と鈴鹿山系との間に白木及び白木一色の名称を持つ集落がある。白木は新羅である。白木は上白木と下白木に分かれている。九州の芦北町にも白木という集落があり上と下に分かれている。太古の時代、この辺りは海であったがその後の室生火山群の噴火と鈴鹿山地の隆起により現在の地形となったといわれている。現在の亀山市や関町は火山灰層が積もった裾野の河岸段丘の上にできている。更に、椋川、竜川、鈴鹿川などが扇状地を形成した。その名残で今も各地に小さな沼が残っている。白木の集落はちょうどこの火山灰層の上の川上にできた河岸段丘の上に存在している。東海道も高層と中層の間の段丘上にある。


 忍山地方

 亀山市の新羅神社と考えられている神社は忍山神社である。亀山市は先に述べたように、竜川や鈴鹿川が作った河岸段丘の上にある。亀山市の古代遺跡の一つである野村忍山遺跡は野村古墳群の一部を形成している。南野町の西端丘陵上に経塚、赤子塚、長塚があり、その南にお姫塚がある。忍山神社の西南に、お姫塚がある。お姫塚の東方の田地の中にもう一つのお姫塚がある。この地からは前期、後期の須恵器が多く出土している。縄文時代に亀山市南野の高い舌状台地に居住した部族の人々の一部が弥生時代に入り台地の西方の崖下の今の忍山神社東方の低地に移り住むようになりこの地にある鈴鹿川の沖積地に水田を営み米作に従事するようになった。旧台地と低地の双方から縄文の魚網の錘や弥生式土器の破片が無数に出土しているのでこの両集落は交流があり、従来の漁労に携わりながら稲作にも従事していたことがわかる。

① 忍山神社と新羅
 忍山神社は亀山市野村町の新国道の南側の低地にあるがこの地は古来字を布気林と称した。低地に住む部族が増加し崇神天皇の時代には相当の数に達したので此処に一社を創建して、その祖神猿田彦を奉祀し地名をとって布気神社と称したという。当社付近には石器や縄文式土器等が出土している。ここに居住した人々が猿田彦命の一族であり、この一族が祖神猿田彦命を奉祀したのが、この神社の本宮であるといわれている。その後、このフケ(布気)の語が転訛して鬚となり、更に白鬚となり、当社を白鬚大明神というようになった(山田木水『亀山地方郷土史』『亀山の史蹟と名勝』『竜川〜白木ウオッチング』ほか)と伝えられている。従ってこれらの部族はこの神社創建以前にこの地方を開拓・居住し、更に一志方面にまで繁衍していたようである。ところで現在の忍山神社はJR亀山駅前から旧国道1号線(県道565号線)に沿って関町の方面へ向かうこと十分ほどで道路の左側に神社の大きな森が見える。社殿の前に横断歩道がある。神社の森の入口に「式内社忍山神社」と刻まれた石碑と石造りの大きな神明鳥居が立っている。千鳥破風の瓦葺屋根を持つ平入りで木造の拝殿と奥に唯一神明造の本殿がある。拝殿には五葉木瓜の紋入りの垂れ幕がかかっている。神社の案内板には次のように書かれている。

 式内社「忍山神社」白鬚大明神
 一、神紋   花菱
 一、鎮座地  亀山市野村四―四―六五(大字一一〇九番地字忍山)
 一、主祭神  猿田彦命(本宮)、天照皇大神(別宮)
   祭神   天児屋根命、 天布刀玉命、
        素盞鳴尊(天王社)、大穴牟遅神(和賀社)
 一、皇大神宮遷幸地跡
 一、弟橘媛命生誕地

 境内には多くの石神が祀られており、弁財天、富士権現、康申、山神等が祭られている。

 忍山神社の由緒について

 忍山神社の由緒については諸説ある。「社記」には崇神天皇(四世紀初)の七年秋九月、饒速日尊五世の孫伊香我色雄命が勅を奉じて猿田彦大神を祀り、伊香我色雄命の子・大水口宿禰の子孫相次ぎ神職となる。猿田彦の一族と伊香色雄命一族(後の忍山氏)とが何らかの因縁で結ばれていたのかも知れない。さらに、垂仁天皇(四世紀)の二十五年、皇女である倭姫命が、天照大神を祭るのに最も適した場所を求めて大和(現奈良県)から近江(現滋賀県)、美濃(現岐阜県)を経て伊勢国に入り、忍山の地に至った時に大彦命が「ここは味酒の鈴鹿国奈具波志忍山」と姫に答えたことにより、六ケ月間、皇大神宮の鎮座地となった。その跡が忍山宮または、小山宮といわれた。その間に神戸及び神田が寄進され、之が本となって後世に鈴鹿神戸郷といわれるようになった、その中心人物が忍山宿禰であった(皇大神宮はその後、磯宮、宇治家田田上宮などを経て五十鈴川上に鎮座となった)といわれる。忍山神宮の祠官である忍山宿禰(「紀」の景行天皇の条に穂積氏忍山宿禰とある)については社記に「地主祖神と申事。饒速日尊五世の孫、伊香我色雄命の子大水口の宿禰と相次いで神主となり同社に奉仕した」とある。「新撰姓氏録」によると、穂積の忍山氏は左京神別上・天神の部に属し「穂積朝臣、石上同祖、神饒速日命速日命六世の孫・伊香色雄の後」とある。また、大水口宿禰も同録に、左京神別・上に穂積朝臣は「伊香賀色男、大水口宿禰之後也」とある。饒速日命は物部氏の祖であるので、この神社の祭神は忍山宿禰の祖・饒速日命ということになる。神官も物部氏の一族ということになる。因みに、忍山宿禰の長女である弟橘媛は日本武尊の妃である。この忍山神宮は延喜式記載の鈴鹿郡忍山神社であろう。忍山神宮には神宮を守る神宮寺が建てられており、室町時代の記録によると、戦乱で焼けたこの寺院の復興を伊勢神宮が援助している。当時の忍山神宮はかなり壮大な神殿であったらしい。しかし、度重なる戦乱などにより忍山神社に関する記録類がほとんど失われ、江戸時代にはその場所すらも定かではなくなっていた。


 忍山神社と神宮寺

 ところで、亀山市の亀山は神社のある神山が訛ったもので、この神山は現在の野村町にある愛宕山、かつての押田山のこととされている。この押田山が忍山神宮の推定地とされている(亀山市「広報かめやま・平成六年七月一日号」ほか)。従って、忍山神社は当初は現在地より東北の愛宕山のあたりにあったようである。この山は元禄年中に宝光院の山伏が京都の愛宕社をここに勧請して以来この名称となったもので、それ以前は神福寺山または押田山と呼ばれ、「河曲鈴鹿小山宮」(『儀式帳』)が忍山宮跡であろうといわれる。押田山は忍山であり、神福寺は忍山神社の神宮寺・慈恩寺の一名から呼んだ名である。神福寺のある神宮寺山(神福山)の麓には寺田、寺屋敷などという字名があり、神福寺墓地も存在する。これは、この付近に忍山神宮寺があったことによる。同神宮寺は当初、薬師寺といい、その後神福寺、長福寺、慈恩寺などと改名し、その位置も多少転移したものらしい。また、この山の西南麓には天神祠、天王祠等という社の跡もある。中でも天王祠は後に能牟良神社と称し、村一円の産土神となった。その西北の坂道を神成坂といい、文明年中の兵火の際に本宮をはじめ摂社、末社、神宝すべて焼失した際に、神職の穂積倶清が御神体を奉載して白木山に避難したときの道だともいう(山田木水『亀山地方郷土史』)。慈恩寺(薬師寺)は聖武天皇の神亀五年(七二八)行基の開創といわれているが文明年中の火災で神戸も無くなった。


 忍山神社と布気神社

 兵火が収まって後、忍山の傍らに仮宮を営むも信長の兵火で再び焼かれ、元の地に奉斎せんと望むも資力がなかったので、布気林にある布気神社の社に仮宮を営んでこれに奉祀した。そこで布気神社と忍山神社の二座が一つの所に坐すこととなった。その後神職は布気神社を本社とし忍山神社を合祀神社とすべきところを、社名に忍山神社を残したので、布気神社の名が消えてしまったので布気神社は忍山神社に庇を貸して遂に母屋をとられた形となり、布気神社はいつの間にか隠れてしまった。つまり、忍山神社の今の地は上古、布気林といい、猿田彦命を祀った、布気神社が鎮座していた場所である。現在は忍山神社の社域に布気神社即ち白鬚神社と別宮天照大神を奉祀する忍山宮の二社が同居し、更にいつしか、本社の布気神社は野尻村の皇館社の森に遷宮した(山田木水「亀山の史蹟と名勝」、「亀山地方郷土誌」など)。―何ともややこしい話であるが、文明の兵乱と信長の焼き討ちで資料が焼失してしまい記録が残っていない為に、白木山に御神体が逃れた後の話で忍山の地に還奉されたのか、布気の地に仮宮を造られたのかが明確に判明していないということである。いずれにしても平安時代には二社とも式内社として存在していた。

(東京リース株式会社・顧問)





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