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三重県の新羅神社(4)


4 鳥羽市の新羅神社

鳥羽はかつての志摩国である。鳥羽港に注ぐ加茂川に沿って鳥羽市から国道167号が真っ直ぐ南に延びている。道路沿に近鉄志摩線が走っている。名古屋から南の賢島まで行く電車。亀山市から道路を南下する。伊勢神宮のある伊勢市で伊勢自動車道を下りて伊勢志摩スカイラインにはいる。鳥羽市に向かう。志摩地方は山岳地帯で道路も山の中が多い。

① 志摩地方の白木神社

この地方にも白木という集落がある。鳥羽市から国道167号線を南に車で二十分ほど走ると近鉄線の白木駅に着く。白木駅前の道を右折し白木川に架かった白木橋を渡る。そこから南西の一帯が白木町である。白木について『鳥羽誌』には、松尾の西十四町の所にあり、神鳳抄に志摩国白木とあり、又内宮儀式帳、神宮雑例集等に所蔵の神堺「東石井嵩(だけ)、赤木嵩、朝熊嵩、黄楊(つげ)嵩、尾垂峰(おたれのみね)等為山堺」 とある。此赤木嵩は此地の事なりとの説あり、戸数三十二戸人口二百三人男百人女百三人。白木の滑谷(なめらだに)にあるたもの木は神木となし同じく滑谷には赤木滝があり、夏天といえども水量減ぜず、下流は滑谷川となり加茂川に合すと記載されている。更に、志摩国苔志郡白木村について『文献集』(加茂村農業委員会)は次のように記述している。境域、西は山嶽を以て本郡五知村本村元標より南の方、字峠山本村と松尾白木の三郷の界に起線し、西に出てる峯を亘り磯部道(鳥羽道と総称)に会し其の道を横断し字滑谷山に移り、峯を遠く延亘して本郡河内村に至りて止む、皆水落限り二分割して盡く境す・・鳥羽道に出て其道を山に登り小道を亘りて、白木川に下り暫く川の中央に境を分割す・・字地は三十一あった。海道と付く字名が多く海道、寺海道、向イ海道、八路海道(字高ノ尾及白木川を以って字石神に界す)。『安政三年宗旨御改帳』には、白木村 東西壱町四間 南北弐町四拾間。一、石高百三拾壱石四斗。一、米三斗八升壱合。大工役米。一、銀百拾五匁六分。一、家数十九軒・・・氏神壱社八王子・・・・・白木村庄屋六左衛門ほか。この御改帳には船津村庄屋、岩倉村庄屋、川内村庄屋、松尾村庄屋も同時に記載されている。なお、松尾とは現在の松尾町であり、近鉄の白木駅のある町である。また、安政とは江戸時代末期の一八五六年である。

白木町の新羅神社

白木町の新羅神社の白木町は、元は新羅であり、白木神社も存在していた。神社は白木村字海道に鎮座していた。旧名は八王子社としていたようである。白木町は国道に沿った白木川に沿う道の右手が小高い山岳地になっており、集落が集まっている。白木川については前記『文献集』によれば、「この川は白木村元標より南の方峠山の渓間より流出し赤松川及に滑谷川の流水と会し共に村の中央を還流して字細田に至り本郷、松尾村に入る」とある。白木神社の跡地を探していると、白木の集落から自転車に乗った老人が通りかかった。農家の人のようであった。「どこ探しているのか?」と聞かれたので「白木神社の跡地です」言うと、「そこに石垣が残っているところだよ」と言われて周囲を見回すが、山の中腹の農家と近くの山を切り崩した土砂の山と荒地が見えるだけだった。「そら、そこの電柱のすぐ横だよ。そこがシラギ神社のあったところだよ」と言われて道路沿の一角を見ると、神社の跡地らしい区画が確かに見つかった。道路に沿って石垣が積まれ、百五十坪か二百坪くらいの区画が道路から一段高くなっており、奥の方には大きな石で積まれた石垣の跡が若干崩れながらも神社の境内を思わせる様子で残っていた。中央部を除いて雑草が繁っており、教えてもらわないと判らない。奥の中央には石段や石垣等のこわれた石が積んであった。白木の集落の入口に神社があったことになる。ここが字海道の入口であった。この白木(新羅)神社は明治三十四年、加茂神社に合祀となってしまった。『諸国誌草稿』には、「白木神社(古は八王子社と称す。苔志郡白木村字海道に在り祭神天忍穂耳(あまのおしほみみの)命、天穂日(あめのほひの)命、熊野樟(くすひの)命、天津彦根命、活津日子根命、田心比燈P、市杵島姫命、湍津比売命 本村創建の時より之を祭る。八王子社と称し産神となせしを、明治六年今称に改む。境内に志松樹四あり・・祭日正月一日、同五日、同八日。氏子五拾三戸なり」とある。また、『志陽略志』『三国地誌』には「八王子祠白木村に在り」。『文献集』(加茂村農業委員会)には、「村社々地東西八間、南北十五間、面積百九十五坪、本村元標より東の方字海道にあり。祭神は天忍穂耳命・・湍岐津日女命の八柱なり。其由来いまだ古書に見当らず。然し昔古老の口碑に拠れば、本村の建置の時今の地に奉祀して本村の産土神となす。その頃は八王子社と称した・・祭日は旧四月一日、五日、八日の三度・・」という。白木神社の祭神は『記紀』神話にある天照大神と素盞鳴尊の子神の八柱であるが、おそらく当地に白木村や白木川が存在していることから考えれば、本来の祭神は新羅の人々が祀った祖神、または守護神であったであろう。本神社が合祀された加茂神社には祭神が同じであるにもかかわらず、天王祭があり、牛頭天王護符の授与が行われている。現在、白木村では白木神社が合祀された加茂神社へ参拝に行くのに時間がかかるので村内の旧字石神の地に、別途白木・石神大神なる神社の社殿を設けている。説明板には荒神様で、商売繁盛、厄除けなどの効能が書いてあった。近畿以西では三宝荒神といわれているが、荒神には種々の解釈があり、民間信仰の火の神、竈の神としては、奥津日子、比売神で素戔嗚尊の子神である大年神の子神、神仏習合で大黒天、大国主命とするなどの説がある。簡素な神明造の社殿と傍らに大きな石が置かれていた。石の前に「石神」と彫られた瓦の置物があった。石は古来より磐座とされてきたので、その伝統を残したものであろうか。春、秋に祭礼を行っている。亀山市にも「石神社」が存在している。石(いわ)神社と呼び、須佐之男命、猿田彦命などの神を祀っている。

② 松尾町の加茂神社

鳥羽駅から国道167号(鳥羽街道)を加茂川に沿って南へ下る。十五分くらいで道路の左手に加茂神社と書かれた古い石柱が見える。白木町の手前である。石柱の横には「掲示板」も立っている。左へ曲がる道路が続いている。舗装はされているが細い四〜五mの道路。まっすぐ東へ延びている。両側は田んぼ。百mくらいで加茂川にぶつかる。加茂川から奥は山岳地帯で余り高くはないが、山脈が連なっている。川を渡る(松尾橋)と、すぐに山裾の森の中に入る。森の中の道のはるか奥に神社の鳥居が樹木の間にわずかに見える。古びた石の鳥居(神明鳥居)。加茂神社と書かれた石柱も立っている。苔が生えたような古さである。鳥居は三基あり、一番奥の鳥居の背後に石段があり、石段の上の台地に拝殿や本殿が建っている。拝殿の中には市の有形文化財である天文十四年の獅子頭、天狗面が飾られている。神社の西側は加茂川、東側は山である。神社は山裾に位置して樹叢に被われている。神社の前に樹木(市指定天然記念物)の説明がある。本樹叢は鳥羽市青峰山の北方、松尾町の山麓にある社林で高木、亜高木層はスダジイ、タノブキ、クスノキ・・ツゲモチ、クロバイ・・クレミノなどの常緑広葉樹で、低木草木層ではヒサガキ・・センリョウ、ヒトツパ、ヌカボシクリハラン、ホソバカナワラビなどにより成り、特にツゲモチは・・台湾、中国南部より琉球、九州、四国を経て、本州紀伊半島の一部に稀有するもので、北限近くにこのような発育旺盛な成樹があるのは学術的にも貴重なものである。ものすごい種類の樹木である。加茂神社(鳥羽市松尾町七五三)には、ちょうど宮司の野村逸良さんがおられ、お話を伺うことができた。以下の記述は野村宮司の話を中心にして『鳥羽市史』、『鳥羽誌』、『三重県神社誌』、『志摩国郷土史』、『鳥羽藩政下の農村』、『鳥羽市十年のあゆみ』『加茂神社の栞』などを参考にしてまとめたものである。『三重県神社誌』によれば、主祭神は五男三女神で八王子神である(天忍穂耳命、天津日子根命、天之穂日命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理比売命、多岐都比売命、市杵島比売)。合祀の神 八王子(旧白木神社五男三女神)、八王子(旧道仏八王子 五男三女神、稲田姫命、建速素盞鳴命)大山咋神(合二社)大山祇神(合三社)弁財天(三社)荒神、水神、風神、氏の神(川森社、岩森社、田中社、前田社)、足の宮(祭神不祥)。『加茂神社合祀目録』によれば、 松尾神社(もと松尾八王子)、白木神社(もと白木八王子)、川合弁財天、川合山之神、道仏八王子社、松尾牛頭天王社、松尾田中社、松尾御妙衣社、松尾川森社、松尾山之神社、三社山之神社、岩森社、足の宮社、前田社である。また、宮司の話では蕨岡(賀茂神社の現在地も字蕨岡である)にあった蕨岡神社が元々の社であるが、それ以前の由緒は不祥。松尾村の松尾神社は京都の賀茂氏一族が南下して京都の松尾大社(秦氏が祭った神であり、松尾神は秦忌寸都理(はたのいみきつり)が葛野(かどの)に勧請したとされる造酒神)にゆかりの人々が松尾村を造り、松尾神社を勧請したものであろう。明治二十二年に町村制が実施され、旧加茂五郷の船津、河内、岩倉、松尾、白木の五ケ村に安楽島村を合併し加茂村となった際に合祀され、五ケ村(現在の鳥羽市の大部分を占める地域)の氏神となった。この松尾村は『神鳳抄』『檜垣兵庫家所蔵文書』にある松尾御園に比定され、『志陽畧志』の「八王子社松尾村に在り、此の外弁財天、山の神、水の神あり」とあり、『松尾村地誌』に「蕨岡神社、社格村社(中略)本社の西方に小社を建てて素盞鳴命を祭る。明治六年本称に改む」とあり、明治四十二年には加茂五郷の内、船津を除く四ケ村が神社を合祀、村社となった。氏子は松尾町、白木町であるが、由緒については創立年代も勧請年代も不祥である。現在の加茂神社は明治四十三年一月、大字白木村社白木神社、大字岩倉村社加茂八幡九鬼神社、大字河内村社八柱神社、同境内社、底箇神社を大字松尾村社、蕨岡神社に合祀の上、加茂神社と称したものである。戦後、河内村社八柱神社、岩倉村社加茂八幡九鬼神社(九鬼子爵の祖霊)(岩倉字中尾にあり、山城国の男山八幡宮を勧請したといわれる。九鬼神社は岩倉字城山にあり、城主であった九鬼澄隆の霊を祭る。明治に加茂字森地の加茂神社と岩倉の八幡社を合祀長い名称となった)は旧地に分祀された。

加茂神社と畿内との交流

加茂村の鴨部、賀茂庄、賀茂里、鴨村等、時代により異なるが、駅家郷と称し駅馬が置かれた。京都の上賀茂神社は別雷神であるが、加茂社は八王子神が祭神で航海の神といわれている。

(東京リース株式会社・顧問)





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