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三重県の新羅神社(7)

① 小宮神社と新羅

小宮神社は伊賀市服部町に鎮座。(式内社・伊賀国拝郡鎮座)。
伊賀上野の寺町から芭蕉翁生家を過ぎると服部川である。旧の大和街道であろうか。服部川は現在では川幅は広いが、花畑やグランド、雑草などが生い茂り水の流れは細い。服部川に架かる橋を渡ると神社の森が見える。広い境内地で道路に沿って石の玉垣が100mくらい続いている。小宮神社玉垣はコンクリートの土台の上にある。中央に石造りの大きな明神鳥居があり、鳥居と道路の間にこれも石造の、幅1mくらいの太鼓橋がある。鳥居の両側には石灯篭が置かれ、左側の灯篭の左手に石碑があり、延喜式内小宮神社と刻まれている。参道には狛犬や石灯篭が並び、小粒の砂利道である。右側に橿原神宮遥拝所と刻まれた石碑が西向きに立っていた。杉の大木の間を入ると神社の社殿が左側にあり、社務所や参集殿が右側にある神社参道を真っ直ぐに進むと駐車場があり、その背後は田んぼである。参道は東向き、社殿は南向きである。入母屋造りの拝殿は比較的大きい。瓦屋根で中央に太めの注連縄と鈴と麻縄が吊り下げられている。左右は白壁とガラス窓の壁である。簡素な登り高欄と宝珠柱や架木があり板の間に玉ぐし案がおかれている。玉ぐし案の上にある頭貫に大きな額が掛けてある。金色で仰霊と書かれている。拝殿の奥の梁には中央に金縁の立派な大きい扁額が掛けられており、太い金色の文字で小宮神社と書かれている。その右側に蛭子社、左側にも扁額があり、春日社、狭伯社、津島社の三社の名が書かれている。拝殿の手前に手水舎がある。拝殿の背後に石造の玉垣があり、本殿は流造であるが、屋根には千木や堅魚木などがついている。中には組高覧などがついている。唯一神明造に似た建物である。境内社は本殿の左右に一社ずつあり、右側の神社は切妻造の覆屋の中に流造の社殿がある。蛭子社である。右側の神社は切妻造で石垣の上に石の玉垣でかこまれて建物がある。こちらは同村字夏ハセ四九七番地鎮座の狭伯社(建速須佐男命、天児屋根命、少彦名命)にその境内社であった津島社、と大字服部字中之房の春日社を合祀したものである。

神社の祭祀氏族と新羅

 私が訪ねた時には、本殿の杉の大木が根を張りすぎて、石の玉垣を壊すということで、この大木を除く工事をしていた。総代と思われる人がおり、由緒書はまだ作っていないとのことで、神社の説明をしてくれたが「インターネットをみていただいた方が良くわかります」と言われて時代の流れを感じた。それでも、ここは服部町の中心部で、この神社は服部氏の神社である。祭神は呉服姫命であるという。呉服と書くのは服部のことで、近くを流れる服部川もかつては呉服川といっていた。この姫は応神紀三十七年に高麗国に渡り呉に行き、呉の王から縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を与えたとの記載がある。しかし、祭神については、「惣国風土記」に園韓神とし、「延長風土記」には服部氏の祖先が小宮大明神と狭い伯大明神を祀ったとする(建速須佐男命、天児屋根命、少彦名命)。また、「伊水温故」は秦酒君の霊社で服部氏の祖神なりとし、「三国地誌」が俗伝として諏訪大明神というのが小宮宮で、牛頭天王というのが狭伯神と伝えている。「姓氏録」には大和国神別に「服部連。天御中主十一世の孫天御桙命之後也」とある。園韓神については、延喜式で宮中三六座の中の園神・韓神のことであるが、この二神は大和王権の時代から祀られていた秦氏系の神の可能性が強く、平安京に移っても内裏の中に祀られていた。この二神は元々、京都盆地に入植した秦氏が祀っていた産土神かもしれない。伊賀の服部氏については阿拝郡服部郷にあり。呉織という言葉は、呉と織という意味の二つに分かれる。「はとり」は機織りのことであるが呉とは当時の倭の五王が使いを出していた南朝の宋国であろうか。南朝へ行くには海路が便利であり、高句麗を経由しても北魏があるので、直接には困難であることから考えるとこの呉はせいぜい高句麗のことであろう。しかし、小宮社については、先に見た穴石神社の項で式内社の穴石神社は小宮神社との説もあった(度会延経「神名帳考証」)が、「三国地誌」の引用している「天平風土記」に久礼波之登利須々杵川とあり、「伊水温故」所引の「伊賀記」に倶礼羽川とある。更に、平城京出土の木簡に「伊賀国安拝郡服部郷俵」などがみられることから、当地には養蚕、機織の技術をもった集団として伴造秦氏の下にいた呉服部が居住していたものといわれる。神社の祭祀氏族は勿論、服部氏であり、秦氏の一族として開拓と共に神の信仰も厚かったと思われる。当社の祭神とされる園神・韓神は延喜式で宮内省に坐ます神とされている。園神も韓神も新羅の神とされ祭神は大己貴命とされている。もともとは農耕神であったのであろう。ちなみに、当地の服部氏は寿永二年(一一八三)服部平康行が源氏に忠勤して御家人となり、東大寺の領地を侵略したらしい。服部氏も全国にみられ、大和では山辺郡に服部郷があり、波止利と称し、大和、摂津、河内、伊勢、伊賀、駿河、武蔵、など全国的にみられるが、元来機織り部門を担い機織部からハトリベとなり、綾部、錦織部、衣縫部、赤染部などに名残をとどめる。

② 敢国神社

この神社は伊賀市一之宮に鎮座している。佐那具にある御墓古墳が比較的近い。小宮神社から車を使って一〇分くらいで着く。旧大和街道の国道25号に近い場所にある。広い境内地は南宮山の山裾の丘陵地である。伊賀の一宮だけあって、立派な社殿が並んでいる。表参道と裏参道がある。神社の駐車場が西にあり、その前から裏参道が登っている。「元国幣中社敢国神社」と刻まれた石碑があり、隣に、三段の石段に乗った石の灯篭があった。一番低いところが、集落のあるところに面した道がある。表参道と書かれている。
敢国神社 参道となっている道路の東側は民家が並んでいる。石灯篭を過ぎると芭蕉の句碑が石を並べた土台の上に立っているが、苔が生えて文字の判読が難しいためか、横に説明板が建てられている。「手ばなかむおとさへ梅のにほひかな ばせを」。しばらく東に歩くと朱塗りの黒木鳥居とこれも朱塗りの一間社流造の神殿、木の灯篭も朱塗である。境内地の周りには池がある。市杵島姫者(弁天社)である。参道の東の端に朱色の両部鳥居がある。金色の文字の扁額がかかっている。東隣は手水舎。鳥居のしたから見上げると真っ直ぐに石段が伸びていて、はるか上段に社殿がみえる。鳥居から少し北に入ると左手に社務所と崇敬者会館が一緒になった大きな建物がある。社務所で由緒書をもらった。拝殿に登る石段の右手に石碑があり、御神水井戸 敢国神社と書かれて四隅を注連縄で囲んだ四角い井戸があり蓋をしてある。その奥に注連縄のかかった一つの岩があり、石の玉垣で囲まれている。桃太郎岩という。説明板には「古伝により、この桃太郎岩は今を去る五百五十年前、南宮山頂(前方に聳える山)からお遷申し上げ、安産及び子授けの守護の霊岩として全国各地より信仰を集めて居ります。御祈願を社務所のかたに…」とある。神社の栞には南宮山上に鎮座の木華開耶姫命を祀る浅間神社から霊を遷したと記されている。長い石段を登ると大きな境内地があり、唐破風の庇を持つ大きな拝殿と背後に祝詞殿がある。その背後には玉垣で大きく囲まれた中に三社殿が建てられており、中央が本殿、左が九所社、右が六所社である。拝殿には大きな扁額(敢国大明神)と白地の布に菊の紋章の入った幕が垂れていた。拝殿の内部の奥の梁に大きな扁額が掛けられており、中央に大彦命、右に少彦名命、左に金山比当スの三柱の神名が書かれていた。祝詞殿の階段の奥に本殿の建物があり、切り妻、平入りのような建物である。社殿は全て南向き。拝殿の前から西側へ裏参道が下り坂になって伸びている。拝殿の隣には、神饌所、神輿蔵、若宮八幡宮、子授けの神、神明社、大石社などが並んでいる。「南宮山の浅間神社はとても登れませんよ」と言われ、登るのを止めた。

秦氏族の祀った神

神社の由緒については、神社の栞に概略、次のように記載されている。「当社は今から千三百年以上前の七世紀の中頃、六五八年に創建された。創建当時は大彦命・少彦名命の二柱であった。創建以前、当社の主神である大彦命は三五〇年頃第八代孝元天皇の長子として大和国に生まれたその子の建沼河別命と共に北陸東海を征討する役目を負われ四道将軍の一人として第一〇代崇神天皇の命をうけ、東国の攻略をされた。この大彦命が大和朝廷に帰服(第七代孝霊天皇)して以来、伊賀の国を本貫の地として居住、子孫は伊賀の国中に広がった。伊賀国の阿拝郡を中心に居住し、阿拝氏を名乗るようになった。古代伊賀地方には外来民族である秦族が多数居住しており、彼らが信仰する神が当社の配神である少彦名命であった。当時は現在の南宮山の山頂付近にお祀りしていたが、創建時には南宮山から現在地に遷してお祀りして現在に至っている。私たち伊賀人はこの二神の混血の民族であります…其の後南宮山の神社跡には美濃国の南宮社の主神である金山媛命を勧請した…九七七年にこの媛神社を合祀した…秦族は外来民族で色々な技術文化をてくれている。例えば、伊賀の組み紐・伊賀焼・酒造などがある…芸能でも田楽の祖・観阿弥は伊賀の出身者で…」とある。まだ、続くが、要は、土着の神と渡来の秦氏族とが一緒になって伊賀の文化を作ってきたので、祖として祀ってあるという。この神社のある一宮地区は古墳が多く、昭和六年の県道の開通工事のために大岩古墳が消滅したが、古墳跡から須恵器、土師器が七〇〜八〇個、ヒスイ勾玉二個、メノウ勾玉数個、碧玉管玉一個が出土している。更に祭祀用の高坏や榊につけたと思われる臼玉などが見つかっている。

(東京リース株式会社・顧問)





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