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三重県の新羅神社(7) ① 小宮神社と新羅 小宮神社は伊賀市服部町に鎮座。(式内社・伊賀国拝郡鎮座)。 神社の祭祀氏族と新羅 私が訪ねた時には、本殿の杉の大木が根を張りすぎて、石の玉垣を壊すということで、この大木を除く工事をしていた。総代と思われる人がおり、由緒書はまだ作っていないとのことで、神社の説明をしてくれたが「インターネットをみていただいた方が良くわかります」と言われて時代の流れを感じた。それでも、ここは服部町の中心部で、この神社は服部氏の神社である。祭神は呉服姫命であるという。呉服と書くのは服部のことで、近くを流れる服部川もかつては呉服川といっていた。この姫は応神紀三十七年に高麗国に渡り呉に行き、呉の王から縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を与えたとの記載がある。しかし、祭神については、「惣国風土記」に園韓神とし、「延長風土記」には服部氏の祖先が小宮大明神と狭い伯大明神を祀ったとする(建速須佐男命、天児屋根命、少彦名命)。また、「伊水温故」は秦酒君の霊社で服部氏の祖神なりとし、「三国地誌」が俗伝として諏訪大明神というのが小宮宮で、牛頭天王というのが狭伯神と伝えている。「姓氏録」には大和国神別に「服部連。天御中主十一世の孫天御桙命之後也」とある。園韓神については、延喜式で宮中三六座の中の園神・韓神のことであるが、この二神は大和王権の時代から祀られていた秦氏系の神の可能性が強く、平安京に移っても内裏の中に祀られていた。この二神は元々、京都盆地に入植した秦氏が祀っていた産土神かもしれない。伊賀の服部氏については阿拝郡服部郷にあり。呉織という言葉は、呉と織という意味の二つに分かれる。「はとり」は機織りのことであるが呉とは当時の倭の五王が使いを出していた南朝の宋国であろうか。南朝へ行くには海路が便利であり、高句麗を経由しても北魏があるので、直接には困難であることから考えるとこの呉はせいぜい高句麗のことであろう。しかし、小宮社については、先に見た穴石神社の項で式内社の穴石神社は小宮神社との説もあった(度会延経「神名帳考証」)が、「三国地誌」の引用している「天平風土記」に久礼波之登利須々杵川とあり、「伊水温故」所引の「伊賀記」に倶礼羽川とある。更に、平城京出土の木簡に「伊賀国安拝郡服部郷俵」などがみられることから、当地には養蚕、機織の技術をもった集団として伴造秦氏の下にいた呉服部が居住していたものといわれる。神社の祭祀氏族は勿論、服部氏であり、秦氏の一族として開拓と共に神の信仰も厚かったと思われる。当社の祭神とされる園神・韓神は延喜式で宮内省に坐ます神とされている。園神も韓神も新羅の神とされ祭神は大己貴命とされている。もともとは農耕神であったのであろう。ちなみに、当地の服部氏は寿永二年(一一八三)服部平康行が源氏に忠勤して御家人となり、東大寺の領地を侵略したらしい。服部氏も全国にみられ、大和では山辺郡に服部郷があり、波止利と称し、大和、摂津、河内、伊勢、伊賀、駿河、武蔵、など全国的にみられるが、元来機織り部門を担い機織部からハトリベとなり、綾部、錦織部、衣縫部、赤染部などに名残をとどめる。 ② 敢国神社 この神社は伊賀市一之宮に鎮座している。佐那具にある御墓古墳が比較的近い。小宮神社から車を使って一〇分くらいで着く。旧大和街道の国道25号に近い場所にある。広い境内地は南宮山の山裾の丘陵地である。伊賀の一宮だけあって、立派な社殿が並んでいる。表参道と裏参道がある。神社の駐車場が西にあり、その前から裏参道が登っている。「元国幣中社敢国神社」と刻まれた石碑があり、隣に、三段の石段に乗った石の灯篭があった。一番低いところが、集落のあるところに面した道がある。表参道と書かれている。 秦氏族の祀った神 神社の由緒については、神社の栞に概略、次のように記載されている。「当社は今から千三百年以上前の七世紀の中頃、六五八年に創建された。創建当時は大彦命・少彦名命の二柱であった。創建以前、当社の主神である大彦命は三五〇年頃第八代孝元天皇の長子として大和国に生まれたその子の建沼河別命と共に北陸東海を征討する役目を負われ四道将軍の一人として第一〇代崇神天皇の命をうけ、東国の攻略をされた。この大彦命が大和朝廷に帰服(第七代孝霊天皇)して以来、伊賀の国を本貫の地として居住、子孫は伊賀の国中に広がった。伊賀国の阿拝郡を中心に居住し、阿拝氏を名乗るようになった。古代伊賀地方には外来民族である秦族が多数居住しており、彼らが信仰する神が当社の配神である少彦名命であった。当時は現在の南宮山の山頂付近にお祀りしていたが、創建時には南宮山から現在地に遷してお祀りして現在に至っている。私たち伊賀人はこの二神の混血の民族であります…其の後南宮山の神社跡には美濃国の南宮社の主神である金山媛命を勧請した…九七七年にこの媛神社を合祀した…秦族は外来民族で色々な技術文化をてくれている。例えば、伊賀の組み紐・伊賀焼・酒造などがある…芸能でも田楽の祖・観阿弥は伊賀の出身者で…」とある。まだ、続くが、要は、土着の神と渡来の秦氏族とが一緒になって伊賀の文化を作ってきたので、祖として祀ってあるという。この神社のある一宮地区は古墳が多く、昭和六年の県道の開通工事のために大岩古墳が消滅したが、古墳跡から須恵器、土師器が七〇〜八〇個、ヒスイ勾玉二個、メノウ勾玉数個、碧玉管玉一個が出土している。更に祭祀用の高坏や榊につけたと思われる臼玉などが見つかっている。 (東京リース株式会社・顧問)
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