大岩古墳近くにかつて存在した大石明神も大岩であったの で、原始信仰の磐座の祭祀が行われていたらしい。また、北 隣の千歳地区からは銅鐸の耳が出土しており、弥生時代後期 のものと言われている。また、御墓山古墳から柘植川を挟ん で1qほどの外山の北側に全長四〇〜六〇mの前方後円墳が 四基ある。阿閉臣の墳墓ではないかといわれている。但し、 四道将軍や欠史時代の天皇の話は現実とは思えないので、大 彦命という天皇とは係わりのない土着の氏族がいたのかある いは伊賀国は加羅(新羅)国とあるように半島から来た人々、 秦氏系の服部氏族の祖を祀り、古墳も服部氏族のものであろ う。この地は近江の甲賀と近く、中世に諏訪信仰が見られ、 甲賀の草津線沿線には諏訪神社がみられ、伊賀も影響を受け て建御名方命や八坂刀売命が祀られている。
③ 須地荒木神社
上野市荒木字宮之前に鎮座。金達寿「日本の中の朝鮮文化」によれば、荒木は半島の安羅(伽耶国の安羅)が来たということから安羅来が荒木となったという。この神社は現在の観光案内地図には「白髪神社」と記されている。敢国神社の東側を通る県道を南に下り服部川の手前で伊賀街道に入ると右手に社叢の森が見える。神社はすぐ目の前にあるが、前には服部川の湿地帯があり渡ることができない。もう一度県道に戻り服部川に架かる寺田橋を渡るとすぐに東に向かって細い道がある。小さな川沿いの道である。周囲は田んぼであり、前方に森があり、集落の中を進むと高く聳える木々の道の左手に石造の黒木鳥居と白い石の玉垣が見える。集落の人々は荒木神社といっていた。荒木山の山麓である。参道の入り口の背の高い石灯篭の前に「郷社須智荒木神社」の石柱があり、灯篭の背後にも「式内社周智荒木神社」と書かれた石碑が立っている。神社の拝殿に登る石段の手前の植え込みの間に、芭蕉の句碑がある。「元禄三年三月十一日 畠うつ音やあらしのさくら麻 ばせを 荒木村 白髭社にて」とある。意味は「春になって畑を打つ音がしきりにする。傍らの畑には桜麻が可憐な芽を出し、双葉が風にそよいでいる。麻の芽にとって、あの畑打つ音が荒々しい嵐のように聞こえるであろう」と説明されている。この神社は古くは白髭神社であったらしい。髪の文字が髭の文字であり、須智も周智と書かれたようである。白髭は新羅ということであるので、この社は新羅神社であった。白の着く神や神社、また、白髭をたくわえた翁の神を鍛冶翁といっているが、これらの神々は新羅系の神が大半である。砂利の参道を歩くと正面に石造の神明鳥居があり、背後に石積の台座に乗った獅子がおり、その奥に長い石段が森の中腹へ続いている。石段の手前の右手に手水舎。六十段くらいある石段を登ると大きな庇を持った白壁と格子戸で作られた拝殿がある。庇の下が大きく開いて奥まったところに板敷の間があり、玉ぐし案や鉾、幣束などが置かれている。裏が格子戸で森の木々がみえる。拝殿の奥の梁に扁額が二つあり、右側の縦長の額には、中央に猿田彦大神、右に武内宿禰命、左には葛城襲津彦命の名が書かれていた。その左側に、横長の額があり、十六柱の神名が記載されている。祭神・猿田彦命、武内宿禰、葛城襲津彦命、誉田別命、須佐男命、市杵島姫命、大山祇命、金山彦命、天萬栲幡千々比売命(たくはたちぢひめのみこと)、菅原道真、火魂日命、大日?貴命など。葛城襲津彦は「古事記」の孝元天皇の条にて、武内宿禰の子とされる。河内の志紀長吉神社に祀られている。また、一段と高い所に本殿がある。唯一神明造のような形の神殿である。森の木と板塀でしっかりと囲まれて外からは良く見えない。本殿と拝殿の間は切り妻のような屋根がつけられている。神社は北面しているようである。境内社もあるが、壊れかけている社もある。当社については、阿拝郡の式内社「須智荒木神社」と記載されているが、「伊水温故」は「周智(すち)の社」と書き、本宮猿田彦命、白鬚明神社と号す。この宮を若宮と号す。竹内宿禰と葛城襲津彦の二座。…昔は本宮一宇で左右に竹内と襲津彦の社があったとしている。スチについては、「続日本紀」延暦三年十一月の条に武蔵介従五位上の建部朝臣人上等言う。臣等の始祖息速別皇子伊賀国阿保村に就きて居る。遠き明日香の朝廷(允恭朝に)の時に及んで、天皇が詔して皇子の四世の孫の須珍都計(すちつけ)王に、その住んでいる地名に因んで、阿保の君の氏姓を賜わりました…とあることから、伊賀の柘植地方からでたという説がある。しかし、京都丹後の大宮売神社の宮司・島谷さんの話で丹後の竹野川流域にある大宮町の大宮売神社を別名周枳(すき)の宮といい、このスキは新羅の意味である。この地方に新羅国があったであろうといっておられた。主木、周木も同じ。スキとスチは転訛し得る言葉であり、同じ意味であろう。当神社の東南方向へ約2qの場所に四世紀後半とみられる全長90mの前方後円墳がある。車塚古墳といわれている。
現在の兵庫県は旧の摂津国・但馬国・播磨国の一部と淡路国を含む地域から成っている。現在「新羅神社」という名称を持つ神社は播磨の姫路市の一社であるが、この地域に係る古代史や「風土記」などの資料と遺跡や地名などを照らし合わせてみると、かつては新羅神社と呼称された、あるいは新羅の人々が祀ったと考えられる神社が幾つか存在している。
当地方は大陸や朝鮮半島との往来の歴史が古く、特に新羅系の渡来人に係る伝承が多く存在している。日本海沿岸地域に属する但馬地方は、北部九州から出雲、京都の丹後地方や福井県の若狭地方を経て、新潟県の弥彦あたりまで拡がる新羅文化圏の中心地の一つであった。日本海を北上してくると石見の三瓶山(佐比売山(さひめ))、出雲の日御(ひの)碕又の名杵築(きずき)の埼からは鳥取の大山(火神岳(ひのかみのたけ))、鳥取からは丹後半島、丹後半島からは若狭や敦賀半島、敦賀半島からは能登半島がそれぞれ眺められるので、渡来人にとっては、恰好の目印となった。新羅文化の分布圏を形成していたのは天日槍(あめのひぼこ)族や弓月の君(ゆづきのきみ)の集団及びその同系統の氏族集団とみられている。更にこれらの地方には秦氏族や物部氏族の活躍の跡が見られるのである。最も有名な新羅の王子・天日槍は定住の地といわれる出石(いずし)地方で泥海であった但馬を、瀬戸(津居山)を切ることによって一気に出現させたとする国造り伝説がある。天日槍を祭神として祀る神社は全国各地にあるが、ここ、出石の神社が総本社といわれている。それ以外の各地でも同様に新羅の人々の文化と神社の祭祀が行われていた。これらの土地にはまた、兵主(ひょうず)神社も多い。天日槍は銅や鉄の精錬技術をもたらしたが兵主の神も金属器や兵器の製造と結びついていた。このことは物部氏との強い関連があったということであり、天日槍が、先鋒将軍(さきつみみ)(前津耳)物部氏の庇護を受けて出石に居住し、物部氏に繋がる但馬の豪族太耳(ふとみみ)の娘を娶ったことをみても絆の強さがわかる。播磨地方は新羅系渡来人が居住した「新羅訓(しらくに)村」や、村に居住の人々が祀ったといわれる「白国(新羅訓)神社」や「広峯神社」がある。更に、「新羅訓村には近江の園城寺(三井寺)の宗祖「円珍」の祖と同族の佐伯氏の祖を祀る「佐伯神社」がある。赤穂市には秦氏の族長の一人「秦河勝」(大避大明神(おおさけだいみょうじん))を祀る大避神社がある。大避という表示は秦氏の祖が雄略紀十五年の条に登場する秦酒公であることから、酒が避となったものといわれている。大裂明神とも表記される。
また、摂津地方は現在の大阪市を含む地域であるが、兵庫県尼崎市には新羅系渡来人の集落地といわれている穴太(あのう)があり、そこには白井(しらい)神社がある。新羅神社の転訛したものといわれている。
一、古代の当地方の特徴
神社の記述の前に当地方の歴史的な背景について、概略の説明をしたいので、面倒でも、辛抱してお読み頂きたい。古代の当地方の特色は要約すると@古代遺跡と神話、A鉄の生産と豪族、B大陸との往来、C天皇家との結びつきの四つにまとめられる。
@古代遺跡と神話については、当地方の有名な明石市西八木海岸で発見された明石原人といわれる人骨は現物が焼失していて評価が分かれているが、最近の研究で、旧石器時代人の可能性が高いといわれている。この頃は海水が百m以上低くなっていたので北と西で大陸と繋がっていた。紀元前三千年以前である。古代から中世を通じ、歴史上重要な地域であった播磨地方は、貴重な縄文遺跡(西舞子の大歳山遺跡、姫路市の辻井遺跡など)や弥生時代の遺跡も多い。更に、尼崎市の武庫庄遺跡は祭殿などを持つ集落中心施設の大型遺物跡(約二千年前)、表山遺跡では中国の前漢鏡を模倣した鏡が発見され、弥生中期は紀元前後に当たることが実証されている(平成九年一月二十九日付読売新聞)。また平成六年十二月には、川西市から百余国に分かれた戦乱時代の要塞跡とみられる環濠跡が発見されている。銅鐸の出土は全国でも多く、出雲に匹敵する。また、古墳も多く、前期のものは山間の頂上部の竪穴式のものが多く、中期の古墳では巨大な前方後円墳が三六基も知られており、播磨地方最大の壇場山古墳(姫路市)は稲背入彦命の陵墓ともいわれ、北西を向いた四百mにわたる段丘上の古墳である。一方、神話については、「記紀」や「風土記」に多くの記載があり、最も古いのは「記紀」の神代国生み神話である。景行天皇(四世紀中頃)二年の条には「播磨稲日大郎姫を皇后とされた」(稲日大郎姫の皇子が日本武尊で日本統一に活躍する)。同四年の条には「稲背入彦皇子は播磨別の先祖である」との記事がある。古代の当地方は畿内に属した摂津(難波津)と畿外である播磨・但馬・淡路地方などに分かれていた。但馬地方には、新羅の天日槍により出石を中心として新羅系の文化が栄えた。豊岡市の森尾古墳が有名である。また西摂津地方も難波津を管理し、播磨・丹波へとつながる重要な地域であった。西摂津の中でも尼崎や西宮市の辺りは海であり、神崎川や武庫川などの河口に中州が発達していったものと思われる。尼崎市の田能遺跡は弥生時代の葬法を明らかにしたものとして有名である。