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三重県の新羅神社(8) 大岩古墳近くにかつて存在した大石明神も大岩であったの で、原始信仰の磐座の祭祀が行われていたらしい。また、北 隣の千歳地区からは銅鐸の耳が出土しており、弥生時代後期 のものと言われている。また、御墓山古墳から柘植川を挟ん で1qほどの外山の北側に全長四〇〜六〇mの前方後円墳が 四基ある。阿閉臣の墳墓ではないかといわれている。但し、 四道将軍や欠史時代の天皇の話は現実とは思えないので、大 彦命という天皇とは係わりのない土着の氏族がいたのかある いは伊賀国は加羅(新羅)国とあるように半島から来た人々、 秦氏系の服部氏族の祖を祀り、古墳も服部氏族のものであろ う。この地は近江の甲賀と近く、中世に諏訪信仰が見られ、 甲賀の草津線沿線には諏訪神社がみられ、伊賀も影響を受け て建御名方命や八坂刀売命が祀られている。 ③ 須地荒木神社 上野市荒木字宮之前に鎮座。金達寿「日本の中の朝鮮文化」によれば、荒木は半島の安羅(伽耶国の安羅)が来たということから安羅来が荒木となったという。この神社は現在の観光案内地図には「白髪神社」と記されている。敢国神社の東側を通る県道を南に下り服部川の手前で伊賀街道に入ると右手に社叢の森が見える。神社はすぐ目の前にあるが、前には服部川の湿地帯があり渡ることができない。もう一度県道に戻り服部川に架かる寺田橋を渡るとすぐに東に向かって細い道がある。小さな川沿いの道である。周囲は田んぼであり、前方に森があり、集落の中を進むと高く聳える木々の道の左手に石造の黒木鳥居と白い石の玉垣が見える。集落の人々は荒木神社といっていた。荒木山の山麓である。参道の入り口の背の高い石灯篭の前に「郷社須智荒木神社」の石柱があり、灯篭の背後にも「式内社周智荒木神社」と書かれた石碑が立っている。神社の拝殿に登る石段の手前の植え込みの間に、芭蕉の句碑がある。「元禄三年三月十一日 畠うつ音やあらしのさくら麻 ばせを 荒木村 白髭社にて」とある。意味は「春になって畑を打つ音がしきりにする。傍らの畑には桜麻が可憐な芽を出し、双葉が風にそよいでいる。麻の芽にとって、あの畑打つ音が荒々しい嵐のように聞こえるであろう」と説明されている。この神社は古くは白髭神社であったらしい。髪の文字が髭の文字であり、須智も周智と書かれたようである。白髭は新羅ということであるので、この社は新羅神社であった。白の着く神や神社、また、白髭をたくわえた翁の神を鍛冶翁といっているが、これらの神々は新羅系の神が大半である。砂利の参道を歩くと正面に石造の神明鳥居があり、背後に石積の台座に乗った獅子がおり、その奥に長い石段が森の中腹へ続いている。石段の手前の右手に手水舎。六十段くらいある石段を登ると大きな庇を持った白壁と格子戸で作られた拝殿がある。庇の下が大きく開いて奥まったところに板敷の間があり、玉ぐし案や鉾、幣束などが置かれている。裏が格子戸で森の木々がみえる。拝殿の奥の梁に扁額が二つあり、右側の縦長の額には、中央に猿田彦大神、右に武内宿禰命、左には葛城襲津彦命の名が書かれていた。その左側に、横長の額があり、十六柱の神名が記載されている。祭神・猿田彦命、武内宿禰、葛城襲津彦命、誉田別命、須佐男命、市杵島姫命、大山祇命、金山彦命、天萬栲幡千々比売命(たくはたちぢひめのみこと)、菅原道真、火魂日命、大日?貴命など。葛城襲津彦は「古事記」の孝元天皇の条にて、武内宿禰の子とされる。河内の志紀長吉神社に祀られている。また、一段と高い所に本殿がある。唯一神明造のような形の神殿である。森の木と板塀でしっかりと囲まれて外からは良く見えない。本殿と拝殿の間は切り妻のような屋根がつけられている。神社は北面しているようである。境内社もあるが、壊れかけている社もある。当社については、阿拝郡の式内社「須智荒木神社」と記載されているが、「伊水温故」は「周智(すち)の社」と書き、本宮猿田彦命、白鬚明神社と号す。この宮を若宮と号す。竹内宿禰と葛城襲津彦の二座。…昔は本宮一宇で左右に竹内と襲津彦の社があったとしている。スチについては、「続日本紀」延暦三年十一月の条に武蔵介従五位上の建部朝臣人上等言う。臣等の始祖息速別皇子伊賀国阿保村に就きて居る。遠き明日香の朝廷(允恭朝に)の時に及んで、天皇が詔して皇子の四世の孫の須珍都計(すちつけ)王に、その住んでいる地名に因んで、阿保の君の氏姓を賜わりました…とあることから、伊賀の柘植地方からでたという説がある。しかし、京都丹後の大宮売神社の宮司・島谷さんの話で丹後の竹野川流域にある大宮町の大宮売神社を別名周枳(すき)の宮といい、このスキは新羅の意味である。この地方に新羅国があったであろうといっておられた。主木、周木も同じ。スキとスチは転訛し得る言葉であり、同じ意味であろう。当神社の東南方向へ約2qの場所に四世紀後半とみられる全長90mの前方後円墳がある。車塚古墳といわれている。
兵庫県の新羅神社(1) 現在の兵庫県は旧の摂津国・但馬国・播磨国の一部と淡路国を含む地域から成っている。現在「新羅神社」という名称を持つ神社は播磨の姫路市の一社であるが、この地域に係る古代史や「風土記」などの資料と遺跡や地名などを照らし合わせてみると、かつては新羅神社と呼称された、あるいは新羅の人々が祀ったと考えられる神社が幾つか存在している。 一、古代の当地方の特徴
神社の記述の前に当地方の歴史的な背景について、概略の説明をしたいので、面倒でも、辛抱してお読み頂きたい。古代の当地方の特色は要約すると@古代遺跡と神話、A鉄の生産と豪族、B大陸との往来、C天皇家との結びつきの四つにまとめられる。 (東京リース株式会社・顧問)
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