|
兵庫県の新羅神社(2) ②鉄の生産と豪族の関係であるが、当地方は鉄生産(千種鉄・ 宍粟(しさわ)鉄など)の歴史も古く鉱山の神「金山毘古(かなやまひこ) ・金山毘売(かなやまひめ)」 を祭る神社や鍛冶(かじ)神の「天目一箇(あめのまひとつの)神」を祭る神社が多い。奈良時代の播磨国美嚢郡(明石郡)の大領は韓鍛首(おびと)という。ま た、播磨国の鍛冶に係る技術者として新羅からの渡来人である忍海(おしみ)漢人(忍海村主)がいる(「続日本紀」)。谷川健一「青銅の神の足跡」には「播磨の古代史は金属を抜きにして語ることができない」と述べているが、当地方は古くから鉱物資 源に恵まれた豊かな地方であり、それを背景にした豪族の勢力も強かった。「旧事本紀」に播磨国の国造として明石・鴨・ 播磨が記載されているが、直木孝次郎「古代王権と播磨」によれば「鴨国造は佐伯直(さえきのあたい)であったらしい」。豪族の勢力がいかに強かったかを物語る話として、安康天皇が暗殺された後の内乱の際、履中天皇と葛城之曾都毘古の孫娘・黒媛の皇子の履中天皇の長男・市辺之忍歯王(いちのへのおしはのおおきみ) (皇位継承争いで先の允恭天皇の皇子で安康天皇の弟の雄略天皇に殺される)と葛城系の夷媛との間に生まれた「億計・弘計」の両皇子が播磨地方に難を避けて、雄略天皇の死後、播磨地方の勢力、特に葛城 氏の支援を受けて天皇に就いている(顕宗・仁賢天皇)。 ③大陸や朝鮮半島との往来については既に述べたが、この地方は瀬戸内海経由や但馬地方経由で日本海を渡ることにより、古くから大陸や朝鮮半島との往来が多かった。大陸や半島からの渡来人が居住した地名が「播磨国風土記」にたくさ ん登場する。姫路の近郊では漢部郷・韓室郷・己智郷、それに枚野(平野)里の新羅訓村(白国村)などがある。韓泊港などもその一つである。また同「風土記」に「韓室(からむろ)などを造る」との記載もある。朝鮮風の塗りごめの家屋である。同じ く「風土記」の餝麿郡の条には新羅訓について、「昔新羅の国の人来朝ける時、此の村に宿りき。故、新羅訓と号く」とある。更に「風土記」に豊国村の記述がある。「豊国と号虎 くる所以は、筑紫の豊国(豊前・豊後)の神、此處に在す。 故、豊国の村と号虎く」。豊前には秦王国があったといわれており、豊前の国の秦氏族が祭祀した新羅神は、田川郡香春町にある香春神社である。辛国息長大姫大目命を祭神としている。香春岳には秦氏が銅の生産に携わった場所として知られており、弥生時代から古墳時代における青銅器に使用され ていたといわれている。「豊前国風土記」には「昔者、新羅の国の神、自ら度り到来りて此の河原に住みき」とあり、太宝二年の戸籍によれば、三百人を越える秦部と二十氏近い勝姓者が確認されている。奈良の正倉院にある大宝二年(七〇二)の「豊前国戸籍台帳」によれば、その総人口の九三%ま でが秦系氏族であったといわれている。播磨国豊前村は豊前の国の秦氏族の人々が播磨国に移住して、そこに豊前国を造 ったということであろう。播磨地方には渡来人の中でも新羅系(或いは伽羅・加那地方系)といわれている秦氏が多い。 秦氏は古代の日本における最大の氏族で、その分布は九州から四国、中国、京都盆地や近江地方・摂津の豊島郡をはじめ 北陸・東海・関東地方などに分かれて住んでいたらしい。尼崎地方では豊島郡の秦上・秦下の両郷が有名である。また有馬郡には幡多郷がある。「飾磨郡の白国神社というのはシラギ神社ということでしょう。それから白国村というのが「風土記」にでてきますが、これは文字通り新羅の人逹が集まってできた村でしょう」(直木孝次郎「古代王権と播磨」)また、淡路という地名は畿内から阿波へ至る道の意味であるが、語源は逢道で、四国の阿波国も同様である。潮の流れや道などの出会う所の意といわれている。或いは、阿波国へ行く途中の島であることから、淡路(路は途中の意)の島だともいわれる。淡路の伝承は “おのごろ島” と国生み神話の中心であるが、但馬の神話は天日槍を中心とするものである。天日槍 については「紀」の垂仁天皇の条(四世紀初頭頃)、「記」応 神天皇の条(四世紀頃末頃)に記載があるが、「紀」によれ ば「三年三月、新羅の王の子・天日槍が船に乗って播磨国の宍粟邑(しさわのむら)にきた。天皇から播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑(いでさのむら)を賜ったが、天日槍は宇治河(淀川)を遡って近江の北にある吾名村にしばらく住んだ。近江から、また若狭国を経て但馬国に至り、居を定め、但馬の太耳の娘麻多烏(またお)を娶り但馬諸助 を産んだ……」とある。当時の但馬は一面の泥海であったので、天日槍は台地を切り開き、水を日本海へ流し、豊岡や出石の盆地を造ったという。その為に「天日槍」は但馬の国を 開拓した神とされている(最も古い新羅系渡来人)。「日槍が但馬の出石にとどまったのは、地理的にも日本海を通じて朝 鮮に近いこの地方の文化が新羅と交渉をもったことを物語る。日槍が直接但馬にやってきたのではなく、はじめ播磨に着いてから諸国を経めぐる形の伝承になっているのは、それら各国の新羅系渡来人の居住する村をつなぐ貴種遊行の説話類型の一つ」(「兵庫県の歴史」八木哲治・石田善人)とされており、これらの諸国には新羅系渡来人が住んでいたようである。岡村久彦「出石の歴史散歩」によれば、天日槍が渡来 した年代、目的等を明らかにするてだては、これらの伝説のほか何もない。また、彼等を実在の人物としてイメージする よりも、抜群の文化を保有し軍事力を備えた渡来者集団として考えると理解しやすいとしている。天日槍集団は秦氏一族 による倭鍛冶の集団であったともいわれている。更に大陸と の往来で注目されている古墳が出石に近い豊岡市の森尾古墳である。四世紀前半の築造とされているが、鏡に□始元年の年号があるため、魏の正始元年(二四〇)または西晋の泰始 元年(二六五)であるとされており、これは森尾古墳の主が大陸との交渉をもっていた証拠と考えられている。そして但馬地方には大陸系の神といわれる兵主神社が多い。全国十八座の式内社兵主神社の内、八座が但馬地方にある。天日槍が住んだといわれる近江地方にも兵主神社が多い。兵主神は、大陸の山東省にみられる八主神(天主・地主・兵主・陰王・ 陽王・月主ほか)の一つとされる神であり、弓月君(秦氏の祖)が招来した神といわれている。従って、秦氏の住んだ地域に多い。天日槍と争った伊和大神は播磨国の国土開拓の神であるが、出雲神話の主人公ともなっており、大汝命(おおなむちのみこと)、大貴己神(おおなむちのかみ)、大国主命などの名で登場しているのである。 ④天皇家との結びつきについては、先に見た顕宗・仁賢天皇や飯豊天皇などとの結びつきの他にも、淡路には天皇の后妃出身者が多い。また、淡路は御饌都国でもあった。更に摂津を始め、瀬戸内海沿岸地方には神功皇后に係る伝説が多い。神功皇后は実在が疑問視されているが、瀬戸内海から北部九州まで伝承が存在するということは、何らかの根拠があったのであろう。「播磨国風土記」は地名の由来を天皇に結びつ けているものが多い。「兵庫県の歴史」には、「例えば、賀古郡の長田里は昔、景行天皇がこのあたりに来られて、道の辺の長い田を見て “長田なるかも” といわれた。登場する天皇 は景行・応神・仁徳・履中の各天皇であるが、中でも応神天皇に由緒をもつ地名伝説が多いことは、この地方が応神天皇の時代に朝廷と関係をもちはじめる伝承的表現である」と説明している。天智天皇が中大兄皇子の時代に詠んだ大和三山の歌の中に印南郡が歌いこまれている。「高山与(かぐやまと) ・・・伊奈美国波良(いなみのくにはら) 」に 山部赤人の歌にも「奥浪辺波安美(おきつなみへなみしづけみ) ・・藤江乃浦尓(ふじえのうらに) ・・」とあり、天皇が魚住町の大海を通って「藤井乃浦」(明石)にやって来たことを歌っている。
(東京リース株式会社・顧問)
・「新羅神社考」に戻る ・「連載」に戻る |