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二、姫路市にある新羅神社

姫路市は、いわゆる西播磨の中心地であり、朝来(あさご) 郡の山岳 地帯(生野銀山の北・黒川)を源流とする市川飾磨郡夢前町(しかまぐんゆめさきちょう)の北西部にある雪彦山の麓から流れる夢前川の下流にある 街である。市内には縄文時代の屈葬された人骨が発掘された 辻井遺跡をはじめ、古墳時代を代表する前方後円墳の壇場山(だんじょうざん)古墳(全長一四〇m)などがある。姫路市はまた、毛織物、 なめし皮、革カバンなどの産地としても有名である。

1 四郷町にある新羅神社

① 古代播磨の文化の中心地

四郷町新羅神社略図姫路市には現在も新羅の名を冠した新羅神社が姫路市の 南、四郷(しごう)町明田(あけだ)に存在している。播磨難が近い。姫路城の東 を流れる市川の下流に播磨灘に接して白浜町という町がある。この白浜町の「白浜」は、かつての「新羅浜」であり、 白浜町の南部は海であったと思われる。この白浜町の北部に白浜町宇佐崎北という集落があり、その東側を八家(やか)川が流れており、八木港で播磨灘に注いでいる。八木港のすぐ東に福泊があり、福泊港が存在する。かつての「韓泊」といわれた港である。白浜町宇佐崎北の東、八家川を渡ったところに四郷町明田がある。四郷町の東には天川という川が流れている。 天川は姫路市の北東部の飾東町(しきとうちょう)の山岳地帯から流れているが西に回り込みながら御着駅の近くを流れて東に向かい高砂市 の曽根港に注いでいる。天川の東には松村川、法華山川、加古川など多くの川が流れている。姫路市四郷町にある新羅神社は八家川の東にあるが、周囲は小高い山岳地帯の裾野の田園地帯にある集落の奥にある。「兵庫県神社誌」は新羅の文字にしらぎと仮名をふっている。「播州名所巡覧図絵」、「姫路の文化財」などには「古くは、しんら明神と呼ばれた」と記されている。恐らく新羅の「シル ラ」からきたものであろう。神社に掲げてある説明板は「新羅」の文字に「しらぎ」と仮名がふられている。この新羅神社に最も近いJRの駅は山陽本線の御着(ごちゃく)駅である。駅の名前からは天皇などの高貴な人が到着された場所を想像させる。御着は播磨国飾東郡にあり、かつては山陽道の主要な宿場町であ った。御着城があった戦国時代には小寺氏の城下町として繁栄していた。この御着駅のすぐ北側は御国野(みくにの)御着、南側は御 国野町西御着である。御着駅の北側一帯は「姫路風土記の里」 と呼ばれ、この一帯には弥生、古墳時代から奈良時代にかけての遺跡が集中して見られ、姫路の古代文化の拠点であったことが窺える。御着駅の北、五〇〇mくらいの場所に壇場山(だんじょうざん)古墳がある。
駅の北西二〇〇mほどの場所には播磨国分寺跡がある。壇場山古墳は御国野町国分寺の段丘上に築かれ、長さ一四〇m、高さ一〇m、後円部径八二m、巾一二〜二〇 mの周濠をもつ前方後円墳である。後円部に大きな石棺蓋石が露出しており、石室は造らずに石棺を直接埋めたといわれている。家、楯、短甲などの形象埴輪や円筒埴輪などが見つかっている。現在は道路に沿っている為に、周囲は土手のよ うに荒れている。近くに陪塚とされる小さな円墳が二基存在 している。更に近くには山乃越古墳(一辺が五〇mの方形の古墳)がある。この古墳には「史跡第三古墳」と刻まれた石柱が立てられているが、雑草と灌木に覆われ、荒れた状態で石棺蓋石が露出している。壇場山古墳は「景行天皇紀」に見える播磨別(はりまわけ)の祖とされている 稲背入彦命(いなせのいりひこのみこと)(天皇の皇子)の陸墓ではないかともいわれているが、「壇場山古墳」の説明板 によれば「国指定史跡で五世紀 前半に築かれた前方後円墳で… 壇場山の名は神功皇后が西討の 途中、この山に壇築いて戦勝を祈ったとする伝承に由来してい る…」とある。御着の謂われはこの辺りにあるのかもしれな い。山陽地方の瀬戸内海に面した地域には神功皇后に係る伝承が多い。これらの古墳はいずれも古墳時代中期といわれているので、四世紀〜五世紀頃のものと思われる。壇場山古墳は播磨国の最大の古墳であるが、御着駅の南にある四郷町見野にも古墳が多くみられる。古墳時代後期の古墳とされ、一 五基以上あったといわれている。今の御着駅はJR姫路駅の東隣駅であるが、小さな駅舎が一つあるだけで、バスもタク シーもない。駅員の人に頼んでタクシーを呼んでもらったら、山陽タクシーが姫路から来るので十分か十五分待つように言われた。タクシーに乗って四郷町明田に向かった。十五分程南に走る。姫路バイパスのガードを過ぎ、しばらくすると新羅神社のある明田に着く。明田は播磨難に近い。神社の立地と周囲の環境は静岡県浜松市江之島にある新羅神社と似ている。こちらは遠州灘が近い。四郷町明田の新羅神社の社殿の南側は民家がほとんどなく、一面の田んぼである。田んぼの中を一本の舗装された白い道が神社のある集落へ通じている。東側は山、西側は八家川を渡ると奥山の集落があり新羅 神社の北西に麻生山と仁寿山がある。西は白浜町である。当神社を訪ねるに際し、「姫路市教育委員会」の石塚氏に資料をいただいた。その中の一つの「文化財見学シリーズ 31」に四郷町の紹介記事がある。「市川の下流左岸に位置し、市川 の氾濫原と八家川の南流する沖積低地からなり、中央に八重鉾山から麻生山 (小富士山)・仁寿山の丘陵を有する。明治二十二年坂元・山脇……見野、明田の八大字(おおあざ)が合併して四郷村となった…村名の由来は東阿保を除いた各大字の用水源である四郷井からとったものである。
四郷地域には五世紀後半の代表的な円墳が見られ、古くより開けた土地である。神功皇后の説話も多く、元取山の東は御幡の鈴を建てられたこと により、鈴野と呼ばれ狩場となった」。この四郷町の地域には見野廃寺跡(白鳳期創建)、宮山古墳(円墳・五世紀)、長 塚古墳(前方後円墳・六世紀)、本郷窯跡、阿保の百穴(群 集墳)などがあることも記載されている。

 

② 新羅神社

田んぼの中の道を進み神社へ向かう。真っ直ぐな道が続き、明田の集落に入ると直ぐに石造 りの大きな明神鳥居が道幅いっぱいの広さと民家の屋根を越え るような高さで建てられている。鳥居の柱が道路の両側の民家を遮るような形になっている。鳥居には「新羅神社」の文字が刻まれた石造りの扁額が架 かっている。鳥居の下から延びている民家に挟まれた道の遥か奥に神社の社殿が見える。民家の間の道が参道を兼ねている。鳥居の柱には「明治四拾弐年九月」と記されている。鳥居から一五〇mくらい歩くと神社である。神社の境内地は一m程の石垣を積み上げた台地の上である。台地はコンクリートのブロックで積まれた石垣で囲まれている。神社のある境内地の正面には七段ほどの石段 が積まれている。石段を登ると台地状の境内正面の左右に二 mくらいありそうな高い石灯籠が置かれている。更に、境内の西側(左側)には子供用のブランコやすべり台などが置か れている。正面左手の石垣の上に金網が張られ、白色の看板が架けられて、それには「明田新羅神社チビッコ広場・管理 者四郷明田自治会」と書かれていた。境内は三百〜四百坪くらいはある。社殿は木造で大きく、りっぱな建物であるが、柱や屋根などの傷み具合が年月の経過を感じさせる。拝殿、弊殿、本殿をもつ。拝殿の前には高い石台に乗る大きな狛犬の像が置かれている。拝殿は木造で入母屋本瓦葦屋根に向拝に唐門を付けた様な建物で間口は広く六間ほどあるが、側面は壁が無く、太い欅のような柱だけの建物であり、神楽殿のような感じがする。内部が丸見えになっているので奥の本殿まで見える。拝殿の奥には三方に置かれた高坏や果樹、幣帛、榊の飾りものなどが見られる。奥の本殿に置かれている御神体は鏡である。また、拝殿の天井には絵馬の額や源平合戦の絵、昭和二九年一〇月の日付の入った奉納者名などの額など が飾られている。弊殿は切妻造瓦葦屋根で七坪。祭神は 帯 たらしなかつひこの中津彦命(仲哀(ちゅうあい)天皇)、品陀別(ほんだわけの)命応神(おうじん)天皇)、息長帯姫(おきながたらしひめの)命神功(じんぐう)皇后)の三神とされる。拝殿の虹梁の上に神社の説明 を書いた額が架けられている。唐門の下の部分には冠木のような木柱があり、しめ縄が張られている。幣殿の背後には一 間社流造の本殿がある。一二坪の建物。流造の屋根の上の部 分に神明造の屋根の上部を取り付けたような形をした珍しい建物である。境内社が四社あり、拝殿の東側に神明社(天照 皇大神・豊受皇大神)、東南の角(境内の右の手前]に岩神社(素 盞鳴命)、南には大歳神社(大年神)、北西の角には朱色の鳥 居に「金森大明神」の扁額を掲げた稲荷神社(倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 、 金森大明神)がある。それぞれ瓦葺の流造、高さ二mくらいの社殿に祀られている。素盞嗚命を祀る岩神社について、「神 社明細帳」は「飾磨郡四郷村明田岩神山鎮座の新羅神社を合祀済」と記載している。この由緒は京都市中京区の岩神(いわかみ)社(中山神社)と似ている。この記述から推測すると、他にも新羅神社があったようである。また、境内には無銘の力石があり、組合式石棺の底石といわれ、社殿の前に置かれている。新羅神社の例祭は十月十六日。秋祭十月一日。氏子は明田の村の人々。


神社の由来

当神社の拝殿に掲げてある説明文には「創立年月は不祥な るも、神功皇后が異国平定の際、福泊港より御上陸、麻生の 峯に御登りの時、この明田村にて天明に及ぶ、依ってこの地 を暁田と称し(後明田村と改められた)凱陣を祝して現在の 三神を祀り、征伐国の一たる新羅の名をとり新羅神社と名付 けたと伝えられる。明治七年二月村社。戦後は国家の手から はなれて社格は廃止となり宗教法人として現在に至る」とあ る。神功皇后の新羅出兵の記事は「神功皇后紀」の九年秋九 月十日の条や「仲哀天皇記」にも見られる。即ち紀には「冬 十月三日、鰐浦から出発された…新羅の王・波沙寝錦(はさむきん) (寝錦 は王の意)は微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色… を船に乗せて軍船に従わせた…高麗、百済の二国の王も降っ た」ことが記されている。




(東京リース株式会社・顧問)





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