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兵庫県の新羅神社(4) 神功皇后は応神天皇の母親とされているので、四世紀中頃〜後半の時代にあたる。従って当神社はその頃の創祀ということであろう。姫路市教育委員会の石塚氏より新羅神社の由来に係る幾つかの資料を頂戴した。その中の一つ「飾磨郡誌」には、「村社・新羅神社(明田)・(祭神・息長足姫命・譽田別命・足仲彦命)は神功皇后西征帰陣の時、新羅の虜囚をここに止め食するに葦原を与え、其地を明田として播植すべしと詔たまふ。よりて虜囚爰(ここ)に止まり其地を開きて食田となしその中央に社を建て皇后を祀る。今に其地を明田といひ社を新羅神社と呼ぶという。明田の氏宮にして境内二八四坪あり、以前は跨祭といひ八月晦日より九月一日に渡りて例祭を行い来りしも中比節句祭に改められたり」とある。新羅の虜囚をとどめて居住させたという話は、静岡県菊川町の新羅(しらぎ)神社の由緒と同じである。両神社とも同じ頃の創建で、新羅系の渡来した人々が元々は、神功皇后ではなく祖国の神を祀った神社であろう。神社名を「しらぎ」と発音するのも静岡県のそれと同じである。「兵庫県神社誌」(中巻)も「しらぎ」神社と表記しており、神社の由緒についての説明も神社に記載されている説明文と同文が記載されている。従って神社の説明文は「神社誌」のものと思われる。但し、「神社誌」、「飾麿郡誌」には異説として「播磨鑑」と「古跡便覧」、「巡覧図会」などを紹介している。即ち、「播磨鑑」には「新羅大明神とは、明田神社是也。皇后御帰陣の時異国の王子を此所に預置給ひ後其王子を祭るという。糸引村鎮座の麻生八幡社縁起にも右同様の事見えたり」。「古跡便覧」には「新羅大明神、明田村にあり、神功皇后御帰陣の御時異国の皇子を此所に預け置き給ふ。後に皇子を祭るという」。また、「播州名所巡覧図絵」には「新羅明神の社は明田村にあり、 異国の皇子を祀るといふ。故に皇子祭といふ」とある。いずれも新羅国の皇子を祀ったという内容である。埼玉県の「高麗神社」(高麗王を祭った)を思い出させる。新羅神社には宮司が在住していない。新羅神社の管理をしている「麻生八幡社」(姫路市奥山字麻生)の宮司・宮川武夫氏を訪ねた。奥山は明田の北西に当る位置にあり、新羅神社から車で五分位のところである。ここが糸引村といわれた所であろうか。八幡社は麻生山(小富士山)の麓にあり隣には仁寿山が連なっている。「播州名所巡覧図絵」は麻生八幡社がある麻生山について「麻生山・三野の庄、奥山村の上にあり。神功皇后の古事有、略之。当国の高山にして、播磨の小富士ともいへり。昔、麻多く生出(おひいで)し山成べし。山頭(さんとう)に地主権現(じしゅごんげん)と役(えん)の行者(ぎょうじゃ)、相殿(あいどの)に祠れり。是、承応年中(一六五二―五四)、明星院といい、修験者の建(たつ)る所。又行者堂の下に、屈曲の岩重り、其中に清水あり。旱天(かんてん)に涸(か)る事なし。又、山下に梅雨松(つゆまつ)有り。姫路の物に同じ」と記載している。麻生八幡社は麻生山の麓にあり、神社の背後にある山が神社の庭を形成しているように見える。山が間近である。宮川宮司の話によれば、「神功皇后が新羅へ出陣の折、大和から瀬戸内海を通過の途時、麻生の山で戦勝祈願をしたので新羅征伐 の帰途、麻生山に立寄り戦勝を祝して、この地に三神 (息長帯姫・品陀別・帯中津彦)を祀ったといわれており、麻生八幡社も新羅神社と同じ三神を祭っている」とのことであった。「播州名所巡覧図絵」には「麻生山(あさふさん)は大己貴(おおなむち)ノ命の跡をしめし給ひし故、醜男(しこお)山といひしを、神功の故事によりて麻生と改めしといへり。祭神八幡三神」、「末社に高良・三島・大将軍・住吉若宮・出雲薬師堂・大歳…もと華巌寺(けごんじ)といふ寺にて聖武帝勅願、良弁僧正の開基也。」とある。これらの伝承や記述から判断すると、当地の新羅神社の由緒は神功皇后が連れ帰った新羅の王族または皇子を祀ったということであろう。神功皇后は、その存在が確認されていないが、記事は四世紀中〜後半頃の時代と考えられているので、この時代に何らかの事情で新羅からの渡来がありその人々が祖国の皇子を祀ったのではないかと思われる。当神社は三井寺の円珍以前の創建伝承をもつことになる。源氏の新羅三郎義光との縁も今のところ見当らない。室町時代には足利尊氏、赤松円心との縁があった。当地にはまた天智天皇系の天皇である桓武天皇を祖とする平家とのつながりが強い。 ③ 白国(しらくに)神社 四郷町から北へのぼる。姫路市の北に白国(しらくに) (新羅国)という町があり、そこには「白国(しらくに)(新羅国)神社」がある。更に北の廣峯山には新羅大明神を祀る「廣峯(ひろみね)神社」がある。廣峯山から北は神崎郡や飾磨郡夢前町である。現在、新羅神社という文字を使っていないが、かつては新羅という文字が使われていた集落と神社が存在する町である。白国という名称は、古代に新羅系の渡来人が住み、新羅訓(しらくに)村といわれてきたことによるものである。白国は姫路駅の北方にある。白国にある神社はいずれも渡来の新羅の人々が「新羅の神」を祀ったといわれている。白国に向かう。JR姫路駅から「神姫バス」マリア病院方面行がでている。途中「姫路城」や「お夏清十郎比翼塚」などを眺めながら北へ向かう。十分程で「白国南口」というバス停に着く。バス停で降り周囲を眺めると、北側は山裾になっており、「広峰山・増位山・白国の文化財巡りハイキングコース」の入口となっている。コースは八・三km程の距離である。この地方は「播磨国風土記」に登場する飾麿郡の 「新良訓(しらくに)」(白国)であり、枚野(ひらの)(平野)の里でもある。古代から新羅系渡来人に係る伝承が多い。直木孝次郎「古代王権と播磨」には「飾麿郡の白国神社というのは「シラギ神社」ということであり、「白国村」というのは文字通り新羅の人たちが集まってできた村でしょう」と説明されている。白国郷土史愛好会編(白国自治会)「ふるさと白国」という本の中に「神話による白国の起こり」という項がある。そこには「私達の故里(ふるさと)である白国の起源は遠く大和時代前期に遡る…景行(けいこう)天皇の皇子日本武尊が…同じ天皇の皇子・稲背入彦(いなせいりひこ)命が勅命を受けて、この針間(はりま)(播磨)地方を治めるために下向して来られたとき、先ずこの白国のあたりに住居を構えられたのが当集落のはじまりである。命はここを根拠として田畑を拓き水利をはかって、よく治世の実をあげられたので一名を針間別(はりまわけ)(別とは長官という意味)ともいった。この命が私達白国住民の先祖である…」と書かれている。この説明と「播磨風土記」の文章を読み合わせてみると、「景行天皇や皇子は新羅系の人々であった」ということになる。「ふるさと白国」には「播磨風土記」についての説明もある。なお、七一三年に編纂された播磨国風土記の牧野里(ひらののさと)の条に「新羅訓村(しらくにむら)あり曰く、新羅訓と号えるゆえんのものは昔新羅の国人来朝の時この村に宿せり。故に新羅訓と号す。山また同じ」。 白国(しらくに)と白国廃寺跡 これらに記述された場所を確かめるべく「文化財巡りハイキングコース」に沿って広峯・増位・白国巡りを行った。白国南口のバス停の辺りは白国四丁目から五丁目の辺りであるが白国は東を流れる市川の西方、増位山や廣峯山を中心とする山岳地帯の南側の地域である。南は弁天池、西に古墳を持ち結構広い。バス停から北に向う広く舗装された道路を歩く。道路のはるか前方に広峯山を始め幾つかの山並みが見える。四〇〇〜五〇〇m歩いた所から広い道路を左に折れる。そこからは道が細くなり坂道になる(広峯の山裾)。少し左(西)にはいった道の北側に民家が二、三軒あり、その奥に民家の屋根と同じくらいの高さの土手がある。土手の上に白い木柱が立っており「文化財散策ルート・白国廃寺跡」と書かれている。側面に「付近から出土する古瓦より、奈良時代の寺跡とされ、池の中の弁天島が塔跡だとされていますが、詳しいことは判らない」とあった。古くは新羅訓(新羅国)邑の新羅訓(新羅国)寺であったのであろう。土手に囲まれた池は城の石垣のようなきれいな石垣が積まれ、直径が二〇〇mくらいありそうな大きな池になっている。弁天池という。城の濠のような感じである。この池は」方の形をした池で、池の中の西側(下の部分)に小島(弁天島)があり、神社の祠が見える。看板の説明を読むと、この地には大きな伽藍をもった白国寺の堂宇が存在したのであろう。この池のすぐ北に白国神社が存在しているので、元々は白国神社の神宮寺であったのであろう。こちらは仏教の伝来以降のものと思われるので遡っても五世紀か六世紀のものと考えられる。池の北西側には姫路市立増位小学校がある。池と小学校の間や池の西側、小学校の背後には白国の集落が広がっており民家が沢山ある。この辺りは白国五丁目である。増位小学校の手前を右折する。白国神社への道を示す白国神社の文字と朱色の矢印の標識が道路の端、土手の脇に立っている。矢印に沿って進むと白国神社の参道に入る。白国神社の正面の参道は「奥白国」というバス停を左(西)に入る道の方である。白国神社の入口の両側に高い石柱が立っており漢字の文字が五文字ずつ刻まれている。更に右手には「県社・白国神社」と刻まれた石柱が三段の石台の積まれた上に立っている。神社は背後の森に覆われている。山の裾を切り開いた場所にある。神社の門の前には大きな黒い岩石が置かれている。右側の岩石の背後には百度石がある。門は立派な本瓦葺屋根・三間一戸の八脚門である。注連縄も架けられている。随神門の両側に置かれている随神の大きな木像には色彩がほどこされているが、今は薄く禿かかっている。この門を過ぎると、大きく幅の広い石の明神鳥居がある。鳥居の背後は坂道になる為に五段くらい石段を登る。平地があり、両側に石の台に載った石灯籠がある。社務所や手水舎などもある。更に石段を登る。参道は幅広く二m巾くらいある。更に石段と平地、参道の両側には背の高い杉の木が繁っている。石段の左右も杉の大木に囲まれている。石畳の参道と周りは細かい砂利が一面に敷かれている平地にでる。両側に松の植え込みがあり、きれいに刈り込まれている。神馬の像も飾られている。 (東京リース株式会社・顧問)
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