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兵庫県の新羅神社(7)

塔身の四面には線刻の月輪内に胎蔵界四仏の種子を刻んでいる。笠は下二段、上六段で隈飾り突起はほぼ垂直で、内に二孤の輪部をまいている。無銘であるが、様式上から室町時代初期の作品と考えられている。この宝篋印塔(ほうきょういんとう)は廣峯神社の背後、俗称「吉備ツ様」と称している地に埋没していたものを現在地に移したといわれている。宝珠の一部を欠くが、その他はよく揃い姫路市内の宝篋印塔(ほうきょういんとう)のうち最もすぐれた貴重な遺品である。昭和二十八年八月、国の重要文化財に指定された」とある。元々廣峯神社は白幣山にあったと云われているので、この敷地は廣峯神社の神宮寺があった地なのかもしれない。宝篋印塔(ほうきょういんとう)の石塔の背後に切妻・瓦屋根をもつ白壁造の塀とその内側に瓦屋根の二階建ての社殿が見える。正面の石段の上にある随神門についても脇に説明板があり「姫路市指定文化財・随神門・元禄時代の建物、大部分は和様であるが、尾棰などに唐様がみられる。全体の形がどっしりおちつき江戸中期の神社の門として播磨における代表的なもの」と説明されている。この門は中の空間が広い為に、石段の下から門の背後の奥にある拝殿が見える一方、門の背後からでも播磨平野が一望できる。門から見える眼下の景色は美しい。手前の正面に姫路城、その先に姫路駅・市役所・姫路港、左手には大きく緩やかに流れる市川や発電所、右手には夢前川や新日鉄の工場などが見え、更に広い播磨平野の先には播磨灘と瀬戸内海に浮かぶ家島諸島、左側に淡路島、右の方には小豆島が見える。絶景に感動する。この場所は眼下に播磨路や瀬戸内海、特に播磨灘の動きが手に取るように見渡せるので、古くから平野や海の見張りの地としては最適な地であった。

B廣峯神社の拝殿と本

随神門をくぐり石畳の参道を直進する。門の背後の参道を進む。拝殿にある石段手前の参道の左右に簡素な白い小さな建物があり御札やお守りなどを売っている。白い簡素な建物であるので、周囲の古びた瓦屋根の社殿と異なり違和感がある。この建物の背後・拝殿の左右に八段積の石台の上に載った石灯籠がある。また、拝殿の前面の白い建物の右側には手水舎がある。廣峯神社入り口 この建物は屋根が苔や雑草の生えた丸い瓦葺・切妻造で下の部分は屋根を支える四本の木柱と木柱を固定する板を周囲に張っただけの簡素な建物である。瓦屋根は年代を感じさせるものであるが四隅の柱はしっかりしている。拝殿の前には五段ほどの石段がある。拝殿は平屋建ての入母屋造であるが、正面にもつ向拝は、冠木門の上に屋根を着けたような形をしており、拝殿の正面の間口も広く神社というより和様寺院のような感じの社殿である。向拝の下は石段の上に木造の十段ほどの階段、左右に登高欄と組高欄をもつ。この入母屋造の拝殿の建物は本瓦葺の建物で懸魚もついている。四方に庇をつけ、正面の太い樽木には「敬神」と書かれた墨筆の大きな額が架かっており更に、太いしめ縄や紙垂もかかっている。正面は広く開けてあり、背後の本殿の建物も見える。拝殿の奥にある玉ぐし案や幣束などが見られる。拝殿の側面はすべて板塀で囲まれている。更に土台には正面の階段と同じ高さに石垣が積まれている。社殿の建物が一段と高い位置に置かれているためである。拝殿に続いて本殿があるが、拝殿の屋根と本殿の屋根とは接して建てられている。奈良の唐招提寺に似た建物である。境内には幾つかの説明板が立っている。拝殿の前面、右手にある手水舎の脇の白木の説明板には「拝殿・桃山時代の建立・本殿と軒を接し、関連して存在している建物として珍しい」。更に拝殿前の「廣峯神社の文化財」という説明板には「国指定重要文化財・拝殿・桃山時代の建立、正面十間の大きなもの」とある。拝殿に続く本殿の建物は桁行十一間、梁間三間、入母屋造、正面には一間通りの庇を持ち、屋根は檜皮葺で千木(ちぎ)や堅魚木(かつおぎ)がついている。庇の間には延暦寺と同じような金属の灯籠が吊られている。本殿の正面は庇の間であるが、その背後には正面の扉と格子戸がついている。庇の間、外陣、内陣に分かれ、内陣には桁行二間を一室としてそれぞれ別の一間社流造、三社が正殿、右殿、左殿に分かれ、他の一間を仏間にしている。天台宗系の神仏習合の神殿として貴重な建物。これは、三社を覆屋に入れた京都の宇治上神社本殿の形式に似ており、三社を囲って横に仏座をつくり、外陣と庇を付け、脇に付属物・供物所・神饌所などを付けたものである。外陣正面は神座の間を板扉、他を格子戸としてある。一間社流造の庇の間の前には十一柱の太い柱があり、それぞれ三社の前には五段の木の階段がついており、拝殿から廊下で続いている。本殿は拝殿より高い位置にあるのでこちらも石垣が積まれている。また、本殿の裏の壁に直径一〇cmくらいの大きさの丸い穴が九個あいている。随神門から見た姫路の風景この穴の説明板があり、「素盞鳴尊(すさのおのみこと)は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟神であり、神徳は天(あま)つ神の中でも最も高い神である。その神徳を此の穴の奥深く備え残し威厳と神秘を重んじた意図の表れである。九の数は陽の終りにして天地萬物八つにて周流する一を加えて陽の極数とする。穴の形、円なるは陽の体。九穴という」とある。中国の陰陽説の影響であろうか。拝殿の東にコンクリートで囲まれた池がある。かつての社殿は池に囲まれていたのかもしれない。手水舎の右にある説明板に「本殿・室町時代中期の建立、中央七間が神殿、その両脇に小部屋を設けて、詰所にした特異な構造物として重要」とあり「廣峯神社の文化財」の説明板には「国指定重要文化財・本殿・室町中期の様式をもち、中央七間に神殿と仏間を交互においた神仏習合の建物」とある。神社は当然のことながら南面して姫路平野と播磨灘の瀬戸内海からも拝すことができる。

C祭神について

広峯神社の祭神については神社発行の「廣峯神社由緒記」に「当神社の御祭神は本殿中央正殿とその右側を左殿と呼び、その左側を右殿と呼ぶ。左記神々をお祀りしてございます。 「正殿」素盞鳴尊(すさのおのみこと)(牛頭(ごず)天皇・武塔(むとう)天神・天道神とも尊称され、薬師如来の教令転身也)。五十猛尊(いたける・いそたけ)(素尊の御子神・大屋彦神(おおやびこの)・射楯(いたて)神とも称す)。「左殿」奇稲田媛命(くしいなだ・くしなだひめ)(素尊の御后神であり、歳徳神で万徳を司る恵方の神)。足摩乳命(あしなづち)・手摩乳命(てなづち)(奇稲田媛命の御両親神)。「右殿」田心媛命(たこりひめ)・湍津媛命(たぎつひめ)・市杵嶋媛命(いつきしまひめ)(宗像(むなかた)三女神と申し上げ安芸の厳島にお祀りされている)。正哉吾勝々速日天忍穂耳命(まさあかつかちはやひあまのおしほみみの)・天穂日命(あまのほひの)・天津彦根命(あまつひこねの)・活津彦根命(いくつひこねの)・熊野櫞樟日命(くまのくすびの)。尚十柱の神々を天正年間に合祀したのでこの宮殿には十八柱の神々をお祀りするものである」として、神殿ごとに上、中、下段に分けて記されている。なお、合祀された神々とは大歳神(おおとしの)・御歳神(みとしの)・若歳神・久久(くく)歳神・久那斗神(くなと)・級長津(しなつ)彦神・級長津姫神等を含む十神のことである(神のふり仮名は筆者)。

D神社の由緒について

広峯神社の草創の記録については永仁元年(一二九三)の大火により社殿をはじめ総てを消失し、わずかに鎌倉時代の将軍・源実朝の古文書等が残っているにすぎない。神社発行の「廣峯神社由緒記」に「沿革」の説明がある。即ち「平野庸修の撰にかヽる「播磨鑑」に「崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て、素盞鳴尊、五十猛命を奉斎し」とあるが如く、西暦元年前後と説いている。其後、聖武天皇の御代天平五年(七三三)吉備真備公に勅して、広峯山に大社殿を造営、新羅国明神と称し、牛頭天王と名づけられたと述べている。「峯相(みねあい)ノ記」に「播州峯相山鶏足寺(姫路市石倉西脇廃寺)参詣ス」と書き始めて「広峯山ノ事、…自国他国歩ヲ運テ崇敬スル事、熊野御嶽ニモヲトラズ万人道ヲアラソイテ参詣ス。…と広く崇敬されている事を記し、次に吉備公が広峯の神を崇め奉り、牛頭天王と称した経緯を次の様に記している。「元正天皇御宇霊亀二年、吉備大臣入唐ス。在唐一八年・所学十三道・殊に陰陽ヲ極芸セリ・聖武天皇御宇天平五年帰朝云々・吉備公於当山奉崇牛頭天王也。年数を歴テ平安城東方守護ノ為ス祇園荒町ニ勧請シ奉ル当社ヲ以テ本社ト為ス也」とあり。吉備真備公(きびのまきび)は永い外国留学の末帰朝したのであるが、その修学の内、陰陽暦学を世に広めたいと考え、唐ノ国の暦書にはその国の歴神天道天徳歳徳八将神等、歴法家の造成した神であるので、彼の国の故事を取り入れ素盞嗚尊(すさのおのみこと)を牛頭天王(ごずてんのう)・天道神とし奇稲田媛命(くしいなだひめ)を頗梨(はり)采女・歳徳神として八王子の神を八将軍などと配して日本暦の歴神とし、薬師如来さえ立て五節句は年中の神事。仏事も法令としたもので、「こよみ」は現代の慶弔建築等に重要(ちょうよう)されるもので当時中国文化を初めて取り入れた公が、広峯社の祭神を歴神とした事で今迄も農耕を中心とする国民の生産の神として崇める上に生活指針とする歴の根源の社とされた…また、牛頭天王としての故事による病気、海陸交通厄難除の神として尚一層の広範囲の庶民の信仰を享けたものと考えられる。又、神威として後白河上皇の御撰による「梁塵秘抄」に、関より西なる軍神として美作の中山、安芸の厳島、備中の吉備津、播磨の廣峯が挙げられ…云々。…牛頭天王総本社として自他共に認められ、皇室国家の庇護もなく唯、大衆の崇敬を得て維持されて来た神社は全国でも少ないと思われる。当社は、京都元官幣大社八坂神社(祇園観慶寺感神院)と本社・末社の争いを永い間続けた歴史を持ち…、永仁元年(一二九三)に大火に罹り社殿をはじめ総てを烏有に帰したのでわずかに残る古文書の一書、鎌倉将軍(源實朝)御教書に「播磨国広峯社者、祇園本社也云々、自今後可停止守護使乱入之状、依鎌倉殿執達如件」建保四年八月二十九日(一二一六)信濃守(行光)この文書に続き貞応二年(一二二三)北条義時下知状にも祇園本社とある。…室町時代、…広峯社を信仰する黒田官兵衛が、当社神主の種々の指導支援により財を得て御着城主、姫路城主となり豊臣秀吉の軍師として活躍した事は有名である。以上当社の由緒沿革の一部を、古記事をもって紹介説明し、地方唯一の民衆信仰支援による大社である事を記した」という内容である。境内にも同じ内容を記載した説明板がある。他の資料では、「姫路市史」は「社伝によれば、創建は崇神天皇の時代に白幣山に素盞嗚尊を祀ったといわれ、神功皇后は征西の時に白幣山にのぼり軍の勝利を祈ったと伝えている。 




(東京リース株式会社・顧問)





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