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兵庫県の新羅神社(8)

天平七年(七三五)に吉備真備が唐より帰朝の際に神託を受け天皇に奏上して社殿を建て、土地を廣峯山(明応六年・一四九七に広嶺山と改称)、社名を廣峯社と称したといわれている。天禄三年(九七二)白幣山から現在地に移されたのが今の廣峯神社である」と記載している。また、牛頭天王については同史に『祇園社略記』に「はじめ播磨国明石浦に牛頭天王の祠があり、後にこれが廣峯山に移され、清和天皇の代(八五八〜七六)に京都の北白川の地に勧請され、貞観 十八年(八七六)に現在の祇園の地に移ったと記している」 と記載されている。『姫路市史』の内容は『播磨鑑(はりまかがみ)』や『峰相(みねあい)ノ記』とほぼ同じであるが、神功皇后との係わりに触れている。神功皇后についての説話は播磨灘に近い「新羅神社」 でもみられた。瀬戸内海沿岸に共通した説話である。『廣峯神社由緒記』に引用の「播磨鏡(鑑)」に記載されている崇神天皇の時代は紀元三〇〇年前後といわれているので、この説明に述べられている年代は古墳時代の前期頃ということであろう。吉備真備は文字通り、吉備地方(現在の倉敷市真備町)の豪族の一族である。霊亀二年(七一六)遣唐留学生となり、翌養老元年(七一七)に阿倍仲麻呂・玄ムなどと共に入唐した。天平七年(七三五)に帰朝し、多くの経書、天文暦書、楽器、弓、矢などを献上しているので「廣峯神社由緒記」に記載の吉備真備の入唐の事実は、帰朝の年次に若干の相違はあるが、概略においては歴史に照らしても間違ってはいない。神社の創祀の時期については古墳時代ということであるが、古くから廣峯山が神奈備(かんなび)山として信仰されていたものと思われる。そして、それをもとに社殿は八世紀(七三三)に聖武天皇の勅により吉備真備が建立、新羅国明神と称し、牛頭天王と名づけられたことになる。元々この地方に新羅国からの渡来の人々が国邑を作っていたことによるものであろう。そうでなければ、唐に留学の吉備真備が新羅の神を祀るということは考えられない。鶏足寺という名称も新羅との縁を感じさせる。また、聖武天皇の勅によっているところを見ると、神社由緒記に記載のように、天皇家の支援がなかったとは考えられない。そして、記載されている内容は既に神仏混淆を示している。一方、京都の八坂神社発行の「八坂神社」には神社の創祀を斉明天皇二年(六五六)高麗調進副使伊利之(いりし)(一般には伊利之使主(いりしおみ)といわれる)が、新羅牛頭山(ごずさん)に座す素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷に祀り天智六年(六六七)社殿を造営したとが書かれている。当時から愛宕郡には出雲系氏族の進出があり、素戔嗚尊の神徳の一つとして水神=農耕神を考えあわせると加茂川の畔は「神を祀る地」としては恰好の地であり、しかも近くには崇峻二年(五八九)創建の八坂法官観寺があり、知恩院古門前に祇園神降臨の地と伝える瓜生石がある等出雲系の素戔嗚尊を祀る小祠を想像するに不自然さはない…。と記述されている。小祠があったとすれば、神社の創祀の時代はこれより前のこととなるので、高麗の使伊利之使主が祀る以前に既になんらかの形で祀られていたことになる。廣峯神社について、『兵庫県神社誌』には「祭神は武大神とも称し、古来新羅国明神・白国明神・白国大明神・牛頭天王・牛頭王・兵主神・武塔天神とも称す。初め神功皇后三韓征伐の際、白幣山に素盞鳴尊を祀りて皇軍の勝利を祈り」、更に「凱旋の際にも同様の祀儀を行い、勝利の奉告をされた」と伝えられていることからすれば、西暦四世紀頃のことと考えられる。神功皇后に係る伝承が縁起に関係するこ とからすれば、先にみた四郷町明田の新羅神社や麻生八幡社の創起伝承に似ている。しかし「この山に神籬(ひもろぎ)を立て山麓で祭祀を斎行したとの伝承はこの山を神体山とする古神道の投影と推察され、神社の源祀は渺茫たる往古に遡る」(西脇芳一『広峯神社沿革考』)との説もある。更に同「沿革考」によれば、「崇神天皇の時代(紀元前後頃)既にこの山に神籬(ひもろぎ)をたてて素盞鳴尊・五十猛命を祀った」という。そして、神功皇后の山上における祭祀の斎行があり、その後聖武天皇の天平五年(七三三)唐より帰朝途中の吉備真備は播磨難航行の際、広峯山より放つ奇しき光を見、山中深くわけ登り「われはこれ素盞鳴尊なり」と唱う老翁に遭い「諸民の守護、五穀の豊饒をおこなうため出雲より移り住んだが、年久しくして知るものも少なくなった。汝は都へ帰り、この状を奏上せよ」との神託を蒙った。都に帰った真備は早々にこの託宣を奏上、この御神威を畏まれた天皇は、翌六年真備に命じて広峯山に大社殿を造営せしめられ、さきに神功皇后が親祭された神明を齋き祀って新羅国明神(しらくにみょうじん)と尊称し、また牛頭天皇と勅名されたという。素盞鳴尊は、かつて新羅国に渡り牛頭山素戸茂利(ごずさんそしもり)に宮居されたことがあったので、一名を牛頭天皇と呼び、又の名を新羅国明神とも呼ばれたが、その和魂は更に武塔天神と呼ばれたという。平安時代には皇族の信仰厚く、貞観十一年(八六九)京都に悪疫が流行したので、清和天皇が広峯神社の分霊を山城国葛原(現在の京都八坂の祇園)に遷したところ、悪疫は退散したといわれ、この京都の社が祇園社の起源とされる。鎌倉時代には廣峯神社の神官は幕府の御家人となり、姫路地方に大きな勢力をもったようである。南北朝時代には足利尊氏に味方し、足利時代以後大いに栄え(「峯相記」、「兵庫県神社誌」ほか)、江戸時代には朝廷・宮家及び徳川幕府の崇拝厚かった。明治に入り牛頭天皇の名を廃し廣峯神社とした(「兵庫県神社誌」「廣峯神社沿革考」西脇芳一、「姫路市史」ほか)。「神社記録」(寛政六年)によれば、「一、當廣嶺社ハ式内ニ候。延喜式ニ飾麿郡射楯兵主神社二座トアル社ニに有之候ト云ヘリ。実は廣嶺神社ト荒神社 ト両者を指シテ射楯兵主神社ト申ス事ニ有之候トモ云ヘリ。又式ニ在ル白国神社ハ當社ノ事也トモ申候。…一、当社之右殿ニハ天照大御神ト素差嗚尊ト御誓ひ之間ニ御出来ニ成りたる五柱之男神三柱之女神を祭れり。皆御大徳之御子神なり世ニハ八将神と崇むる者候得共八将神ニハ非ズ、八王子又ハ八大神と崇め申し候。一、當社者古昔白国神社と称せり摂社白国神社ヲハ分けたると云ふハ如何處此社式内社に有之候只今は麓白国村ニ有之候祭る神ハ五十猛命ヲ祭リ候此神ハ木種をまかれしニ依り木種と子種と通ずる間違いナシ世ニハ安産の神と申て祈る者有之候云々」…。ともある。更に、当神社が拝観をさせている古文書がある。建保四年 (一二一六)の鎌倉将軍源実朝が政所執事に宛てた御教書の中であり、それには「当神社は祇園(八坂神社)の本社であるとしており、播磨国広峯神社祇園本社」 と記載している。その後、広峯神社は応長元年(一三 一一)に祇園社の末社にされている(「天台座主善法院慈厳御教書」)。「姫路市史」第一五巻には「廣峯信仰…祭神の牛頭天王とは一名武塔天神とも言われインドにあっては祇園精舎の守護神とされ、中国を経て日本に伝来する間に陰陽道の影響を受け、わが国では御霊(ごりょう)信仰と習合して厄神とみなされ、これを祀れば疫病やその他の災厄より 免れるとして広く人々に信仰された。この信仰を一般に祇園信仰という。この信仰が御霊信仰と習合したことについては、非業の死をとげた人の御霊は怨霊となって祟をすると考え、その怨霊を祀ることによって災厄より逃れられると考えた御霊信仰と信仰の基盤が同じであったからである」としている。政敵は身内であっても殺した時代に人々は、疫病や天災などが起ることは怨霊のたたりと考えていた。御霊信仰の遺跡と しては奈良県当麻町加守寺跡から大津皇子(六六三〜六八六年)の供養塔とみられる六角堂遺構が出土している(七世紀後半〜八世紀初)。広峯神社の神仏習合を示す遺跡として宝篋印塔がある。当社が、新羅国大明神と名づけられたのは、或いは、かつては、この山が新羅国(白国)にある新羅国神社(白国神社)の神名火山(かんなびやま)であったのかもしれない。廣峯山麓の古墳については前述したが、神輿塚(みこしづか)古墳、権現山古墳が有名である。また、増位山の山上にも増位山古墳群が存在する。時代がはっきりしないが、横穴式の石室を持つので四世紀後半以降のものと考えられる。新羅の古墳の影響も考えら れる。

⑥境内社について

当社は当初白幣山にあり、天禄三年(九七二)年に当地に移ったと云われており、白幣山には現在も摂社の吉備神社と荒神社があり、東の峰には天祖父神社を祀っている。境内には摂社・末社が十一棟あり、いずれも江戸時代に属する建築である。拝殿の前左端に摂社・蛭子社(一八四九年)、現在の名は「恵美須神社」。神社の手前に石柱が左右に立っており、左は「天禄永盛」右は「発祥致福」と朱色の文字が刻まれている。説明板には「恵美須神社・祭神蛭子命、事代主命(ことしろぬしのみこと) 、商売繁盛、金運、漁業、福の神・建立・嘉永元年(一八四八)・社殿形式・一間社隅木入春日造、檜皮葺」。と書かれている。 末社・地養社( 蘇民将来(そみんしょうらい) )(一六八七年)一間社流造。拝殿 前の右端に軍殿八幡社(応神天皇・神功皇后)(一七一一年)一間社流造銅板葺屋根。本殿の背後に山王社(金山毘古神)(一七七七年)一間社流造本瓦葺。庚申社(猿田彦命)(一七五一年)、冠者殿社(一九世紀)、大鬼社(伊奘諾尊)(一七三五年)天神社(菅原道真)(一七二四年)いずれも一間社流造本瓦葺。稲荷社(一七六一年)一間社切り妻造本瓦葺。熊野権現社(一八六八年)三間社流造本瓦葺、荒神社(素差嗚尊)(十七世紀)一間社春日造柿葺。が配置されている。拝殿の左にある蘇民将来を祀る社の説明文には「素盞鳴尊は蘇民将来の門戸に茅輪を造らせ疫病神を禁圧し給いひたり。之により蘇民将来は病気にかからなかった」と記載されている。全国各地の神社で「輪枝」の神事の行われているのは此の社の古事にならえるものであるといわれる。拝殿の右端に白い板の摂社・末社に係る案内板があり「稲荷神社・商売繁盛の神。天満天 神社・学問の神。熊野神社・当神社の鎮守。産神社・縁結びの神様、女性の守護神。鐡神社・工業の守護神。大鬼神社・災厄を除く神。庚申社・怪病諸の災除の神。拝殿の裏です」と書いてある。

 当神社の例祭は一月から十二月まで毎月のように催されている。月次祭も毎月一日・十八日の二回。十一月十五日の御柱祭は長野県の諏訪神社にも見られるが、当社のは「オハシラ祭」といい、吉備真備が伝えたという陰陽道の呪術的秘法を用いて、来年の豊作を祈る祭りである。最後には根本に火を放ち神託を受けて柱の倒れた方向が来年の節分以降の「方忌み」の方角とする。一方、諏訪の御み 柱 はしら 祭は寅・申の年、七年目ごとに八ヶ岳の原生林から切り出した御柱を里まで曳きだす祭で運ばれた柱を社の四隅に建てる儀式である。




(東京リース株式会社・顧問)





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