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兵庫県の新羅神社(9) 四本の柱により、囲まれた場所が聖域であり、やがてヤシロの意味となった。現在のように七年に一度行われるようになったのは桓武天皇の時からといわれる。蝦夷の征伐に霊験あらたかということで軍神として社殿の立て替えを七年毎に行ったのが起源という。しかし、この諏訪の地方では古くから祖神・氏神であり、鎮守の神、農耕の神であった。諏訪大社の歴史には持統天皇が勅使を派遣し、国家安寧と五穀豊穣を祈念したことが、「持統紀」五年(六九一)の条に見られる。神社の祭神は大国主命の二男・健御名方命(たてみなかたの)と八坂刀売命(やさかとめの)である(健御名方命の母は越の国の沼河媛命である。八坂刀売神の兄神は八重事代主命)。なお、廣峯山の麓、白国の背後の廣峯谷と増井谷の間に南ら延びる尾根があり、その先端に大歳神社がある。そのすぐ上に白国宮山古墳があり、埴輪などの出土品があった。二基の古墳があったが、古墳封土の流出があり、現在は場所を確認できない。樹木が繁り場所の特定も困難である。ここから出土した埴輪は地元の中学生が調査により、採集したものであるが、その中に「鶏形埴輪(とりがたはにわ)(頭頸部)」と呼ばれているが、この埴輪の出土は播磨でも数例にすぎず、貴重品である。須恵器、甕、壺、杯蓋などから五世紀末と言われている。他には、姫路市の兼田古墳群、高砂市の時光寺古墳などがあるのみ。下山するときは増位山を回っておりた。 随願寺の境内が増位山の麓まで続いており、参道を下ると、麓には随願寺の伽藍の一宇であった「念仏堂」(播磨西国四番札所・境内の手洗石は石棺蓋を利用したもの)がある。随願寺から歩くこと約一時間。念仏堂を過ぎ姫路藩墓地をすぎると、白国のバス停に着く。 4 姫路市白国にある佐伯(さえき)神社 「佐伯神社」があるのは白国というバス停の少し手前、増位山の麓の白国二丁目である。神社は増位川(廣峯山から流れている。姫路城の近くで船場川と一緒になり夢前川に注ぐ)を挟んだ対岸にある。川沿いの石垣の上に境内があり、コンクリートの壁で神社の境内を囲ってある。壁の内側に立てた「佐伯神社」と大きく墨書された白板の看板が壁の上に見えるのですぐそれとわかる。神社の正面の川に架かった橋は木造の格子になっているが年数がたち風化したような土色である。橋を渡る。境内の入り口の両側に丸い大きく太い石柱の上に木造の切り妻屋根を持つ灯籠が建っている。私が佐伯神社に興味を持ったのは、三井寺(園城寺)の宗祖・円珍の祖が佐伯氏であることと、既に見たように、播磨別(はりまわけ)の祖といわれる稲背入彦命(国別(くにわけ)明神)の孫阿曽武命(白国家の祖)の子阿良津命が播磨国の初代国造となり、佐伯直の姓を賜り佐伯氏となったという伝承である。四国は瀬戸内海を挟んで山陽地方の国々と一帯の文化圏をなしている。特に河内や大和に近く、淡路島を含む播磨灘を中心にした地方には一つの文化圏があったと思われる。三井寺の宗祖・智証大師・円珍の生誕地の讃岐国と播磨地方とは家島諸島などを介して陸続きのような位置にある。 ① 神社と由緒 神社の境内には直径二mくらいありそうな椋(むく)の木の巨木があり、一〇mくらい残して切られている。姫路市の立札があり、保存樹であることが書かれている。それ以外にも大きな背の高い木々が繁っているが、境内はあまり広くない。社殿は小さく橋をわたるとコンクリートで固めたような巾一mくらいの平石を敷いた参道が二〇mくらい続く。左手に自然石を積み上げたような石灯籠が立ち、背後に椋の大木が聳える。正面の参道の先にある拝殿は瓦屋根で入母屋造。間口三間くらいで一間が空いているが、両端の下半分は白壁で囲まれている。奥行き二間くらいある。下半分は白壁で囲まれ、あとは空間である。正面・梁に〆縄と紙垂がかけられている。八脚門のような形である。鳥居はない。奥に小さな石の段があり、流造の小さな本殿が石の上に置かれている。覆屋の中である。建物内部の建材は外見と違い、拝殿の中は立派な太い木材を使用しており、建物で梁の上には土器や陶器が飾られている。神社の境内にある大木を削ったような板に書かれた「佐伯神社由来」に、「佐伯神社由来・御祭神・阿良津命・当佐伯神社の御祭神・阿良津命はこの地の遠い御先祖であらせられ、佐伯直の姓を応神天皇より御受けになられました。 ② 佐伯直について 智証大師・円珍の母親は佐伯直の出であり、父親の姓・因支首(いなきのおびと)(稲置(いなぎ)に由来するという)は景行天皇の皇子の神櫛(かみくし)皇子が祖であるといわれる。この佐伯氏は播磨や讃岐、阿波などに居住の佐伯氏族と同じ氏族に属する。佐伯氏なる氏族の祖は、景行紀に「神櫛皇子は讃岐の国造(くにのみやつこ)の祖である」と記載されており、「姓氏録」・右京皇別に「讃岐公は景行天皇の皇子神櫛別命(かみくしわけのみこと)の後也」とある。また、和泉国・皇別には「酒部公は讃岐公同祖。神櫛別命の後」とある。神櫛皇子の弟が稲背入皇子で播磨別の祖である。また、左京諸藩の項に秦酒公が太秦公宿禰(うずまさのきみすくね)の後とある。秦酒公と秦酒公(はたのさけきみ)が同一人物かどうか不明であるが、秦氏は同じ景行天皇の子孫ということになる。両者とも酒造とみられる。しかも秦氏と同祖ということにもなる。酒部公・讃岐公は新羅系渡来人であるといえる。景行天皇自身の父である垂仁天皇は半島と縁が深い崇神(御間城入彦五十瓊殖(いにえ))天皇の皇子であり父の垂仁も北陸や丹波国などとの縁の深い天皇である。御母は丹波道主王の女(たにわのみちぬしのおおきみのむすめ)であり、景行天皇は近江国の高穴穂宮(大津市穴太(あのう))に住み、そこで亡くなったと紀には記載がある。なお、「姓氏録」右京皇別の項には「酒部公・讃岐公同祖。大鷦鷯天皇(おおささぎの仁徳)の御世に韓国から渡来した人」とあので、秦酒公、酒部公ともに半島からの渡来人であることになる。酒人については、近江の坂田郡の上申書(天平十九年・七四七・十二月二十一日付)「坂田郡司解」に、郡の大領(長官)・坂田酒人真人新良貴(さかたのさけひとまひとしらき)と記されており、近江の坂田郡には坂田酒人氏が居住していたことが知られる。この氏は「姓氏録」・左京皇別の「息長真人同祖(おきながまひと)」とあり、応神天皇の皇子に祖をもとめている。一方で「開化記」には針間の阿宗君(あそのきみ)の祖は息長日子王(おきながひこのおほきみ)であるとしているので、開化天皇の時代に既に針間国は存在していたことを示す記述がある。そして「景行記」には景行天皇が吉備臣等(きびのおみら)の祖(おや)、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の女(むすめ)、名は針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)を娶り生ませる御子、櫛角別王(くしつぬわけのおほきみ)、次に…小碓命(をうすのみこと)、亦の名倭男具那命(やまとおぐなの)…次に神櫛王(かみくしのおほきみ)…とあることも既に針間国(播磨国)の存在を示すものである。更に、「姓氏録逸文」には景行天皇の子の稲背入彦の後。孫の阿良都別命(あらつわけのみこと)男・豊島は孝徳天皇の御世(六四五〜六五四)に佐伯直の姓を賜る…との記載がある。阿良津命(あらつのみこと)は白国神社の祭神・阿曽武命(あそたけるのみこと)の子で、応神天皇の時に父を祭神に加えている。阿良都別命は阿良津命の後であろうか。その子の豊島の時に佐伯直となったとしている。佐伯直は「姓氏録(右京皇別)」に記載があり、概略は「景行天皇の皇子稲背入彦命の後なり佐伯直の男・御諸別命が成務天皇の御代に針間国の中を分けて之を賜った。之により針間別と名づけられた。さらに、男・阿良都命(あつらのみこと)、一名を伊許自別という―は応神天皇が国堺を定める為に、針間国・神崎郡に巡行の折に、岡部川の上流に住む日本武尊が東国平定の折に俘にした蝦夷の後裔が居住していたことを知り、この国を針間別(後に佐伯直と為す)に賜り、針間のほか、安芸、阿波、讃岐、伊予も同時に賜った」と記載されている。仮に、この伝承の通りであるとすれば、讃岐の佐伯氏は播磨の佐伯氏のと同族ということになる。しかし、一説に蝦夷の後裔ということにもなるが古墳時代頃を記述した「記紀」の表現は大和国(やまとのくに)の王の敵は皆、蝦夷(えみし)あるいは熊襲(くまそ)、土蜘蛛(つちぐも)などと呼んでいる。智証大師円珍の祖・佐伯氏は白国氏(新羅訓・新羅国氏)でもあり新羅との係わりがあることになり、円珍が新羅明神を三井寺の守護神として祀ったとしても話の辻褄はあう。更に、稲背入彦命の父・景行天皇が都を志賀・高穴穂宮に置いたといわれる大津市穴太には旧跡がある。 (東京リース株式会社・顧問)
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