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兵庫県の新羅神社(10)

園城寺から近いので、一層の愛着を感じたのかもしれない。しかし、佐伯有清「円珍」によれば「円珍の本姓は因支首( いなきのおびと)、 俗名(ぞくみょう)を広雄(ひろお)といった。父は宅成(やかなり)、母は多度郡の郡領家の佐伯直(さえきのあたい)氏の出で空海(くうかい)の姪である。因支首は景行天皇の皇子・武 国凝別皇子を祖としていた・・・円珍の祖父の世代の因支首氏は、 延暦一八年の本系帳提出命令に応えて、伊予の別君氏などと ともに「同宗」である旨を記して…円珍の父道麻呂は、多度 郡に居住していた同族の因支首国益らとともに、大同二(八〇七)年に本系帳を再び提出し、あわせて和気公への改姓を申請した・・・(「讃岐国司解」)」と記載している。これは大同二年三月に 改姓を願うものは、年内に申請せよという「太政官符」が発 せられたことに応じたものである。この様に見ると系図や氏 の祖については、はっきりとしたものが不明で、確たる史料 がないことがわかる。なお、佐伯部について「尼崎市史」は 仁徳紀に見える菟餓野(とがの)の鹿の物語には猪名県(いなのあがた)の佐伯部(さえきべ)が登場するが、「佐伯郡は、大和政権の東国征服が行われた際、強制的に畿内もしくはその周辺に移住させられた土着民の蝦夷(えぞ)で編成された部であると考えられている。景行紀の五十一年八月の条には、蝦夷が播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の五国に分置されたこともみえている。これらの佐伯部はそれぞれの地方の国造の一族によって管理され、管理するものは佐伯直(さえきのあたい)を名のった。そして更に、これら諸国の佐伯部は総括的に中央において大伴連の一族である佐伯連(さえきのむらじ)によって管理された・・・佐伯連が県犬養(あがたのいぬかい)・山・壬生(みぶ)・大伴などの諸氏と共に皇居の十二門を守った、いわゆる門号氏族の一つであったことなどからみて、最も古い種類に属する親衛軍であったと考えられる」と説明している。なお、菟餓野は岩波書店版「日本書紀」の脚注によれば、摂津国八田部郡を指すとされる。また、仁徳紀には、天皇は佐伯部を皇居(みやこ)に近づけたくないと、役人に命じて安芸の渟田(ぬた)(安芸国沼田郡・安芸の佐伯部は景行紀五十一年八月の条にもある)に移したことも記載されているので、親衛隊であったのかどうかわからない。

 

5 姫路市の射楯(いたて)兵主(ひょうず)神社

射楯兵主神社姫路城の旧城内に鎮座する姫路城鎮護の社であったと共に播磨国の総鎮守社である。射楯兵主神社は素盞嗚尊(すさのおのみこと)の子神・五十猛命(いたけるのみこと) 、 鍛冶(かじ)神、天日槍命(あめのひほこのみこと)、大国主(おおくにぬしの)命、また、神 功皇后(じんぐうこうごう)などと係わりを持つ神とも云われていることから採りあげた。

① 社殿について

射楯兵主神社現在の姫路城の入り口となっている大手門の前にある「大手門公園」の一角に鎮座しており広大な境内を持つ神社。道路に面して五〜六mはありそうな大きな石の明神鳥居が建ち、鳥居には金色の文字で「射楯兵主神社」と書かれた大きな扁額が架けられている。更に、鳥居の前には、鳥居と同じくらい高い石柱があり、「延喜式内・播磨総社・射楯兵主神社」 と刻まれている。石柱と鳥居の間の両側に、石柱と同じような高さの石灯籠がある。この灯籠は三mくらいありそうな大 きな石の台の上に置かれている西の鳥居である。この神社には南にも大きな通りに面して石の大きな明神鳥居がある。西と同じくらい大きい石の明神鳥居と石灯籠が取り付けられている。石柱もあり「射楯兵主神社」と刻まれている。南の鳥居から入ると鳥居から遥か奥に神社の神門と森が見える。参道は二m巾くらいの石畳が続き、楼門に着く。銅板葺(緑青で緑色)のような唐破風(からはふう)の向拝(こうはい)付入母屋造の大きな門である。四脚向唐門のような形。門の両側には門柱の中ほどの高さに瓦の切妻屋根を持つ白壁の土塀が築かれている。門の梁には太いしめ縄や紙垂が見え、入り口から奥の拝殿が見える。中にはいると広い境内である。門から拝殿に続く広い石畳の参道の右手(東)に手水舎があり、更にその東に長生殿(結婚式場など)がある。手前に「鬼石」が置かれており、石の瑞垣で囲まれている。案内板があり「昔、源頼光大江山の鬼賊を討伐した折、その首を持ち帰り、姫路城内の案内社傍に埋めて標石を置く、後、案内社と共に此所に移されたものです」とある(説明文の一部の文字で・・・を付けた所は風化して微かに見える)。しかし、現在の案内社八幡宮はこの場所から少し離れ、本殿の裏手に並ぶ摂社の稲荷社の隣に鎮座している。射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)は養和元年(一一八一)一一月一五日、播磨国内一六郡の神々一七四座を一括して当社に合祀した時から「播磨国総社(はりまのくにそうしゃ)」あるいは「府中社」の呼称が一般化した。楼門を入る。左西手に摂社の恵美酒(えびす)社、住吉社(住吉三神・ 息長帯姫命)がある。門をくぐると石畳の参道の正面に社殿がある。正面に見える拝殿の建物は瓦葺向拝付の入母屋の屋根 に千鳥破風のついた寺院のような建物で間口は一〇間くらいありそうな広さである。しめ縄と紙垂が付けられ、しめ縄には真鍮の鈴が付けられ、そこから四本の麻縄が垂れている。屋根に近い部分のみ白壁があり、あとは柱のみの建物。組高欄がついている。幣殿の左側に切妻屋根を持つ廊下があり総社会館(社務所)につながっている。拝殿は広く、拝殿に続いて切妻瓦屋根の立派な幣殿がある。奥に幣束がみえる。奥にある本殿に登るための階段が二つ造られている。幣殿の背後に立つ本殿の建物は珍しい建物で銅板葺(既に緑青がはえている)入母屋の屋根に千鳥破風を二つ付けたような形である。千木も見える。二間社流造の本殿であるが、東殿に射楯(いたて)大神(五十猛神(いたける))、西殿に兵主大神(ひょうず)(大己貴(おおなむち)神)を祀り、本殿の中央には客神のための小さな空間(中央殿)が設けられている。この空間は十一月の神無月の時に出雲の女神(丹生津姫か)が見えるための客間であるとのこと。本殿の背後には十二社殿、その西に西播磨総神殿(播磨国内の大小明神 百七十四佐座のうち西播磨の御祭神をこのお社に合祀しております。御鎮座年月日・安徳天皇養和元年十一月十五日、御 祭礼日十一月十四日と記された説明の板が立っている)、十二社殿の東に東播磨総神殿(播磨国内鎮座の大小明神百七十四座のうち東播磨の御祭神をこの社に合祀しております。御鎮座年月日・安徳天皇・・・と記載の説明板がある)が存在する。東西の播磨殿はいずれも瓦葺・流造の横幅の広い屋根であり、石の土台の上に社殿が並んでいる。また、播磨殿は白壁で朱色の柱で造られている。その東側には摂社の琴平社(大物主神)、末社の鹿島社(健御雷之神)、神明社(伊勢両宮)、戸隠社(手力雄神)、稲荷社(倉稲魂神ほか)、摂社の案内社八幡宮(猿田彦神・誉田別神)、末社・粟島社(少彦名神)、更に、摂社の長壁神社(姫路刑部神・冨姫神)、姫道天神社(菅原道真公)、祖霊社の各社が並んでいる。鬼石の傍らにある稲荷社は朱色の鳥居が数多く並んだ奥に社殿がある。これらの神社はいずれも拝殿の前の参道から東に延びる参道に南面 して鳥居があり社殿は北側にある。同じ参道の案内八幡宮の鳥居の前の参道の南に池があり、その中に厳島神社(市杵島 姫命)が建てられている。鳥居は池の南にある。

② 祭神

射楯大神(いたてのおおかみ) ― 五十猛(いそたけの)命と称し素戔嗚尊の御子神であられ、檜や楠等の木々を植樹して、日本の国土を緑豊かな国にされた樹木の神様と崇められています。また、神功皇后の新羅遠征の折に、御船の先導をしたという「播磨風土記」の故事から、勝利や幸福へ導く、道開きの神様としても崇敬されてい ます。

兵主大神(ひょうずのおおかみ)― 大己貴命(おおなむちのみこと)と称し、或いは、大国主命・七福神の大黒様とも呼ばれ、后神や多くの御子神に恵まれたことから縁結びの神様と名高く、福の神とし慕われています。また、農業・工業・商業のあらゆる産業から、医薬、酒造までを生み出して、人々の暮らしを豊かにされた国造りの神様としても崇徳されています(「神社の説明書」)。神社に掲げてある大きな板に記載された「播磨国総社略記」によれば、「祭神・射楯大神(五十猛命)、兵主大神(大国主命又の名大己貴命)、播磨国十六郡大小明神百七十四社の大神、摂社・末社三十六 大神」とあり、「鎮座」を説明した項目には文字の判読しにくいところもある。概略、次の説明が記載してある。「当社は延喜式内の大社で、射楯大神は飾磨郡因達(いだて)の里(さと)に鎮座し、また、兵主大神は欽明天皇二十五年(五六二)六月十一日丁卯の日に飾磨郡伊和の里水尾山に鎮座されしを、延暦六年(七八七)に坂上田村麻呂将軍の願により国衙の庄小野江の里梛本に奉遷し、射楯大神を合祀して射楯兵主神社と称せられり、降って安徳天皇の養和元年(一一八一)霜月に播磨国内の大小明神百七十四座を境内に祭り合祀して以来播磨国総社・府中社と称するに至った・・・。「ご神徳」の項には「射楯大神は・・・韓国に渡り造船の材、家屋建築の用材等に要る八十種の樹木の種を持ち帰り吾国土に植樹の大功あり・・・又兵主の大神は天孫降臨以前に於いて葦原中国の国土経営を完成し庶民を愛瑛、農耕を始め畜産養蚕漁業等其他各面の殖産農業に最も力を注ぎ・・・医薬温泉の道を・・・」。射楯大神の五十猛命は 「記紀」に記載されている業績を述べている。更に兵主大神ともいわれた大国主命については、国土開発の業績を述べて天孫降臨以前の葦原中国の国土を経営された神であることを述べている。こちらも「記紀」神話と同じような内容である。




(東京リース株式会社・顧問)





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