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兵庫県の新羅神社(11)

神社の祭神については「播磨国風土記」の飾磨郡・因達(いだて)の里の条には「土は中の中なり。右、因達と称(い)ふは、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと) 、韓国(からくに)を平(ことむ)けむと欲(おもほ)して、渡りましし時、御船前(みふなさき)に御(ま)しし伊太代(いだて)の神、此処(ここ)に在(いま)す。故( かれ)、神のみ名(な)に因りて、里(さと)の名と為す」と記載がある。この因達の里の伊太代の神は岩波書店「播磨国風土記」の脚注によれば、「航海神。住吉大社神代記に船玉神と見える・・・」とある。これによると、因達(いだて)の里(さと) の名は伊太代(いだて)の神の名をつけたという。射楯の神は神功皇后と係わりが深く記載されているので、海人族の神でもあったのであろう。また、兵主神については、同「風土記」の伊和の里の条に「土(つち)は中(なか)の上(かみ)なり。右、伊和部(いわべ)と号(なず)くるは、積幡(しさは)の郡(こほり)の伊和君等(いわのきみら)が族(やから)、到来(き)たりて此に居(お)りき。故(かれ)、伊和部(いわべ)と号く。手苅丘(てがりをか)と号くる所以は、・・・韓人等(からひとら)始めて来たりし時・・・」とある。積幡(しさは)の郡(こほり)は穴粟(しさわ)郡のこと。伊和大神は大己貴神(おおなむちのかみ)(大国主命(おおくにぬしのみこと))と同神で、兵主神とも同神といわれている。穴粟郡は伊和大神を祀る一族の居住地であるが、東隣の飾磨郡にその一族がやって来て居住したので、その一族の名をとり「伊和の里」といったのであろう。穴粟(しさわ)の郡(こほり)は伊和大神と天日槍との抗争で有名な地であるが、飾磨郡の東隣の神前郡(かむざきのこほり)でも天日槍との争いがあった(「播磨国風土記」)。即ち「播磨国風土記」神前(かむざき)の郡(こほり)の条に「右、神前(かむざき)と号(なず)くる所以(ゆえ)は、伊和(いわ)の大神のみ子、建石敷命(たけいはしきのみこと)、(山埼(やまさき)の村)神前山(かむざきやま)に在(いま)す。及ち、神の在(いま)すに因(よ)りて名と為し、故(かれ)、神前(かむさき)の郡(こほり)といふ」とあり、「粳岡(ぬかをか)は、伊和の大神と天日桙命(あまのひぼこのみこと)と二はしらの神、各(おのもおのも)、軍(いくさ)を発(おこ)して相戦(あいたたか)ひましき。その時、大神の軍・・・」と記載がある。粳岡(ぬかをか)は姫路市神南町八幡の糠塚(ぬかつか)の地といわれている。更に宍禾(しさわ)の郡(こおり)(この郡名は伊和の大神が国造りの時大きな鹿にあった。その鹿が己の舌をだしたので「矢(や)は彼(そ)の舌(した)にあり」といい、宍禾(しさわ)の郡(こおり)と号した。即ちシシアハ鹿遇の音訳といわれる)の波加(はか)の村(むら)の条に「国占(し)めましし時、天日槍命(あまのひぼこのみこと)、先 に此処(ここ)に到りましき。伊和(いわ(の大神(おおかみ)、後(のち)に至(いた)りましき。ここに、大神大きに恠(あやし)みて、のりたまひしく、「度(はか)らざるに先に到りしかも」とのりたまひき。故(かれ)、波加(はか)の村(むら)といふ」とある。地名が居住の氏族や彼らの崇拝する神の名によってつけられたことが判る。

③ 大和国の穴師(あなし)に鎮座する兵主(ひょうず)神社との関係

大和にある兵主神社は播磨国の早川神社と交流があるという(大和穴師鎮座の兵主神社、中宮司)。この播磨国の早川神社の祭神は兵主神である。場所は射楯兵主神社(総社本町)から市川に沿って南に下る。JR姫路駅の南に北条という町があり、大歳神社がある。更に南に南条という町がある。ここにも大歳神社がある。更に、姫路バイパスを抜けて南に下る。市川に沿って飾磨区阿成(あなせ)という町がある。飾磨区阿成・植木という地があり、その南に阿成・渡場がある。市川は大河であり、中流より下に来ると川の中に砂州や島などが点在している。渡場も砂洲であろうか。舟付場として繁栄していたのであろう。大和・兵主神社の中宮司はこの「阿成(あなせ)」について、現在は「あなせ」と呼んでいるが、本来は「あなし」 であり、飾磨区阿成の渡場にある神社は大和の穴師の兵主神社の神を分霊したものであるという。「播磨国風土記」に「飾磨郡・穴師(あなし)の里(さと)、土は中の中なり。右、穴師と称(い)ふは、倭(やまと)の穴无(あなし)の神の神戸(かんべ)に託(つ)きて仕(つか)へ奉(まつ)る。故(かれ)、穴師(あなし)と号(なづ)く」とある。この地は大和の兵主神社の神戸であったので穴師という地名となったという。穴師の里は宍禾郡(しさわのこおり)が本拠地と思われるが、こちらは同風土記に「穴師の里、本の名は酒加(すか)の里なり。土は中の神なり。大神、此処に飡(いひすか)しましき。故(かれ)、須加(すか)といひき・・・今、名を改めて穴師となすは、穴師川に因りて名と為す。其の川は、穴師比売(あなしひめ)の神によりて名となす。伊和の大神・・・」とある。伊和大神が食した場所であるという。また、播磨の射楯(いたて)神社は兵主神社の祭神を大国主命と記しているが、大和の兵主神社では矛が御神体ともいわれ、「天日槍」が祭神で製鉄の神ともいわれているので、当地の兵主神も製鉄に係る神ではないかと思われる。神社のある辺りの市川は川の中に小さな島があったり、川の端が狭くなっていたりして沿岸地域が大きな砂州か扇状地のような形をしている。恐らく、古代にはすぐ西に流れる船場川、夢前川などの地域も含めて、この辺りまで、播磨灘(瀬戸内海)が入り込んでおり、その為に航海の船が往来する港であり、渡し場の地名が残っているのだと考えられる。阿成の南は飾磨区中島であり、対岸の地は荒神社があり、飾磨区妻鹿(めか)という。その南は白浜町であり、東は四郷明田、南は白浜町となり、播磨灘に接している射 楯(いたて)大神(おおかみ)は五十猛命(いそたけ)であるという(射楯神社)。五十猛命は五十跡手(いとて)(伊都国の王)と同一神といわれている。そして、五十跡手は天日槍の子孫であるという。一方で先に見た如く、伊和大神は兵主神であり、大貴己神であるといい、大貴己神は大年神、大国主神と同一神であるという。とすれば、天日槍神と大国主命神は同根であることになる。まさに、新羅の神々である。そして、同「風土記」宍禾(しさわ)の郡(こおり)・伊和の村・本の名(な)は神酒(みわ)なり。大神、酒(みわ)を此の村に醸(か)みましき。故(かれ)、神酒(みわ)の村といふ。又、於和(おわ)の村といふ。大神、国作り訖をへまして以後、のりたまひしく、「於和(おわ)。我(あ)が美岐(みき)に等(まも)らむ」とのりたまひき。この記載から伊和は神酒であり、三輪であることがわかる。三輪の神の大物主命は大貴己命とは同一神とされており、伊和大神も三輪の神と同一といえことになる。更に、酒造りで有名な氏族はは秦氏族であるので、神に献上する酒を造ったのは天日槍と同族の秦氏である可能性が強い。


三、赤穂市にある大避(おおさけ)神社


赤穂市は「和名類聚抄」では、赤穂郡の記載があるが、「播磨国風土記」には記載が残っていない。現在に残る「播磨国風土記」には、播磨国の東の明石郡と西の端の赤穂郡が欠落している。このことについて姫路獨協大学播磨学研究会編「神 は野を駆けて」は次の様に説明している。「明石は「門戸をひらく」 という意味で、語源はアカ(ル)イソ(開磯)の変化で、そこは垂水の海。そこから東は難波の海で、 明石大門(あかしおおと)を先端にもった明石郡は古代の関所が語源の意味とみることにより、西の赤穂と並べて考えられる。明石も赤穂も政略軍事上の重要な「開く」という語が示す重要な地点であったことが、両郡が風土記から欠けていることとかかわりがあるのではないかと思います」。また、赤穂の地名については、落合重信「ひょうごの地名再考」によると「この地域には水銀鉱床があり、景観の異様さから赤穂・赤生などの漢字地名が生まれたのではないか」あるいは、「赤色土は鉄分によるものであり、赤穂は赤色表土からきているという研究もある」と述べている。いずれにせよ、赤穂郡は西の端である。赤穂郡(あかほのこおり)坂越郷(さこしのさと)は新羅系渡来氏族の秦氏と係わりの深い場所である。


① 坂越(さこし)の町

播磨地方には「天日槍」の渡来伝承と共に「秦氏」の居住についても揖保郡・赤穂・賀茂郡を中心として伝えられている。特に播磨西部地方は天日槍の渡来伝承が多いので新羅系の外来の人々や集団が多かったことを示している。秦氏についても赤穂には、秦河勝(はたのかわかつ)を祀る大避(おおさけ)神社が数多く存在している。これは、当地での秦氏の存在が大きかったことを意味している。姫路駅からJR山陽本線で岡山県側(西)に行き、相生駅でJR赤穂線に乗り換える。播州赤穂駅の手前に坂越(さこし)駅がある。坂越駅で下車。駅前から南東に向かう道を真っ直ぐ歩く。この辺りは、砂子(まなこ)という地名であるので、古代には海の入り江であったのであろう。千種川に架かる坂越大橋を渡り終えると傍らに「赤穂道路マップ」という案内板が掲げてある。案内図に従って坂越(さこし)港へ向う道を歩く。赤穂市は相生市の西にあり岡山県との県境の町である。坂越は赤穂市の中でも相生市に近く、東部を流れる千種川と瀬戸内海(播磨灘)の坂越湾に挟まれた町である。特に坂越浦は十七世紀には「瀬戸内海有数の廻船業(西廻り航路)の拠点」として、また「赤穂の塩」を運ぶ港として明治時代まで繁栄した。坂越は半島の付け根のような場所にあり、この坂越から左(西)の御崎(坂越)、御崎の御崎をまわり尾崎に至れば千種川と瀬戸内海、右は湾曲した海岸がつづき小さい半島に至る。その先端を釜崎という。坂越とその南の御崎までは丘陵地であるが、その南西の町のある海浜町や千種川の左岸の町は千種川の扇状地のようである。千種川が赤穂港(瀬戸内海)に注ぐ先端に赤穂海浜公園があり、唐船浜海水浴場がある。隣接する御崎の千種川が瀬戸内海に注ぐ場所に、小さな山(一九m)がある。唐船山という。古代の地形では、此処だけが島(岩山)で周囲は海であったと思われる。この山は恐らくその東にある御崎や御前岩と共に瀬戸内海を東進して難波を目指して進む船の指標になったであろう。特に唐船は韓船の意味であり、古代の加羅、新羅を指した言葉で、それらの国々の船が寄港した名残であろう。赤穂港の沖は播磨灘で沖には家島諸島が姫路の沖まで並んでいる。西は鹿久居島を隔てて備前の邑久(おぐ)郡(湯次(ゆずき)神社があり、秦氏の祖を祀る)があり、遥か西南の沖に牛窓(うしまど)港(この地も新羅と係わりが深い)が見える。坂越の町を流れる千種川は北の鳥取県との県境にある中国山地の宍粟郡(しさわぐん)千種町の最も北部の山岳地帯に源を発し兵庫県内を南に縦断して坂越を過ぎると南の赤穂港に達している川である。大避神社へ向かう。千種川に架かる坂越大橋を渡って左折し、川に沿ってしばらく歩き左折する。この辺りの千種川は幅も広く、一〇〇mくらいありそうである。しばらく歩くと坂越三差路の信号に着く。少し上流の坂越橋(坂越大橋から見える)を渡った坂越橋東の左手には製塩業が盛んであった江戸時代に高瀬舟で製塩の燃料の薪が運ばれていた。船着き場の名残である「高瀬舟船着場跡」がある。



(東京リース株式会社・顧問)





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