|
兵庫県の新羅神社(12) 坂越三差路を東に向かう。坂越湾に至る道で、坂越大道といい、伝統的な街並みが残っている石畳の道である。古い家屋が残っている。鳥居町集会所を過ぎて坂越湾の方に進むと道路の左手には奥藤家の建物が残り、白壁の酒造の醸造場、立板格子と白壁、瓦葺屋根で複雑な入母屋の建物があり、奥藤酒造家の母屋である。家の前の水路には石垣が積まれている。江戸時代は庄屋、廻船業、金融、製塩業、酒造業など幅広く事業を行っていた家柄である。三差路から坂越港に向かって旧道を二十分程歩いた所。酒蔵の建物の横に母屋があるが、その一番手前の建物の横、路地の入口に「大道井」という井戸跡があり、井戸は現在も敷石の下に残っている。すぐ横の板塀に木の板が架かり説明がある。「大道井(だいどうい)この井戸は、大道井筒とか通り町の筒井とも呼ばれて、生島の舟井、海雲寺の寺井と共に坂越の三井といわれた古い井戸でした。坂越は赤穂藩の塩の積出港であり、千種川を高瀬舟で運ばれてくる佐用や上郡の物資の集散地として栄えていたので、諸国から寄港する千石船や浦人達の生活用水として大切にされてきました…大阪夏の陣で手柄をたてた姫路藩の…道路拡幅のために地上の姿を消した大道井は井桁(いげた)が一箇保存され、石の井戸枠に残った釣瓶(つるべ)の縄の食いこみあとが私達の祖先のくらしを今にしのばせています」。坂越港が赤穂藩の重要な港として活用されていたことと共に生活用水を如何にして確保していたかがわかる。道路が坂越港に突き当たる手前に信号がある。道路の突き当りに「坂越港」の道路標識がある。坂越の海岸とはコンクリートの厚い塀で仕切られている。道路標識の下に「左大避神社(おおさけじんじゃ)」の大きな案内表示が掲げられている。坂越港から海岸線は南北に延び、南は坂越大泊鉱山やビーチを経て南端の御崎まで、東は坂越港を経て大きく湾を形成し坂越湾となっている。東にある相生湾との分岐をなしている釜崎まで坂越湾である。坂越港の信号の先に大きな島が見える。「生島(いきしま)」という。原生林の生茂った島には丘陵が幾つか見えて双子山のように見える。秦河勝公が生きてこの島に着いたことから島の名がついたといわれている。島の西側に秦河勝の墓や神水井戸があり、東側には浜辺に石の明神鳥居をもち、白壁に囲まれた大避神社の御旅所と祭礼船を格納している兵庫県有形民俗文化財の「船倉」が建っている。古来、「生島」は神域であって、樹木を伐る事はもちろん島内に入ることも恐れられ、江戸時代から今日でも幾話かの祟り伝承が里人に信じられている。国立公園特別保護区に指定され島内には一九〇種余りの植物が種々な群落形成をし、わが国の貴重な植物分布上の樹林とされている(神社発行「大避神社」)。この島の背後に鍋島、又遥かに、壱根(相生湾に壱根港をもつ)と釜崎の村のある半島が見える。「坂越港」の信号のある角も三差路であり、正面の横断歩道の標識を左折する。この角には旧坂越浦集会所がある。赤穂藩の行政機関があった場所である。藩主の茶屋も兼ねていた。地図でみると、大避神社はこの建物の裏手(北)の山にある感じである。集会所の前の道は簡易舗装のされた道で、本瓦葺、平入りの母屋と土蔵を持つ立派な建物が残っている。一〇分くらいで、三差路の交差点に着く。左(北東)に曲がる道路の入り口の両端に二mくらいの石灯籠が建っている。大避神社の入り口である。石灯籠から見ると少し下り坂の長く続く参道と途中の大きな石の明神鳥居がある。鳥居からは、登り道が続き、神社の石段や門、社殿が見える。背後には高い山が見える。長い参道で遥か遠くの正面の山の裾と中腹に神社の社殿が見える。 ② 神社への参道と本殿 坂道の参道の中央にある石の大きな明神鳥居には、しめ縄が架けられ銅板の扁額に金色の文字で大避神社と書かれている。鳥居の手前には先ほどと同じような形の石灯籠が左右に置かれている。大きな鳥居の建つ場所からは奥にある神社の石段や八脚門などが良く見える。神社に登る石段の手前、右手に「県社・大避神社」と刻まれた二mくらいの石柱が大きな自然石で囲まれた石の台の上に建てられている。左側には四段に積まれた石の台の上に置かれた石灯籠がある。灯籠の頭の部分には宝珠のような丸い形をした石が載せられている。山裾の森の入り口に立つ随神門までは幅広い石段が二十〜三十段くらいあり、両側には石灯籠がびっしりと並んで置かれている。石灯籠の手前には鉄と木で作られた仕切りが作られている。ここから左の神社西裏参道を登ると明治維新まで神社と一体であった妙見寺観音堂がある二〇〜三〇段くらいありそうな石段の上には、入母屋、瓦屋根の八脚門の随神門(仁王門)が作られてある。注連縄が三ヶ所に架かり、紙垂も付けられている。門の左右は太い柱の間の下の部分は連子窓のような、しっかりした造りで、上部は金網で六角形を繋げた形の大きな仕切り窓がある。窓のついた部屋は前後に分かれていて、前に随身の像、板壁の背後には仁王像が置かれている。神仏習合の名残である。門の前に立って坂越港の方を眺めると瀬戸内海国立公園の坂越湾に浮かぶ生島が眼下に迫り、生島にある大避神社の御旅所や船倉が良く見える。門をくぐるとまた石段があり、それを登ると境内である。神社の社殿は石垣で作られた上の台地にある。石の鳥居の脇に「御祭神秦河勝公・千三百四十年大祭記念碑・昭和六十二年十月十日大祭執行」と書かれた石碑が建てられている。更に、木の角材で造られた枠組みの中に白い板をはめた説明板がある。「兵庫県指定・昭和六十年三月二十六日・重要有形民俗文化財・名称・坂越船祭り祭礼用、和船六隻及び船倉一棟・所在地・赤穂市坂越三、三三五番地、所有者・宗教法人大避神社・港町坂越に伝わる大避神社の祭礼において、その中心的行事である神輿渡御に使用される神事専用の和船及び船倉・漕船(櫂伝馬・端船・橋船)、二隻・楽船、一隻・御座船(神輿船)、一隻・警護船、一隻・歌船、一隻」と書かれている。更に、社殿の配置されている境内地を造る石垣には帆立船の帆の形をした白地の説明板が三枚ある。「大避神社(OsakeJinzya)・【海に学ぶゾーン】【古代〜江戸時代】この神社は、遠い昔から坂越の海と人とを見守り続けてきました。祀られている秦河勝は、…坂越へ移り住み、千種川沿いを開拓したと伝えられています。また、能楽(鎌倉時代の演劇)の守り神としても知られ、神社には古い舞楽面が残されています」。更に、「生島(Ikishima)【海に学ぶゾーン】【古代〜江戸時代】坂越には、古くから海辺で暮らす人々が住んでいました。それは、生島によってこの港が荒波から守られていたからです。人々は生島を神として祀り、豊かな海の恵みに感謝してきました…」。もう一枚は「坂越の船祭り(Sakosi no Funamaturi)【海に学ぶゾーン】【中世〜江戸時代】海に育まれた坂越の人々は、お祭りにも船を使いました。毎年一〇月に行われる船祭りは、大避神社から神霊を生島へ渡すお祭りです。坂越が船を使った交易で栄えたころ、船乗りたちは、今のような勇壮な船祭りを作り上げました。絵馬(神社に飾られている絵)や石灯籠を見れば、そのころ港に浮かんでいた船の名前を知ることができます」とある。【】の部分はブルーの丸で囲まれている。ところで大きな随神門(仁王門)をくぐりしばらく参道を歩くとまた石の階段がある。拝殿の前の石段も巾広く二十段くらいある。石段の両側には擬宝珠高欄のような石造りの仕切りがついている。拝殿の前には小さな切妻屋根を付けた柱に提灯が付けられて立っており、正面入り口には大きな銅板葺の唐門が付けてある。太い梁を二本渡してしめ縄を張ってある。間口、奥行きとも二間くらいありそうである。唐門に続き、その背後に春日造りのような形で、切妻妻入りの大きな瓦屋根の拝殿がある。唐門の梁には銅鏡が三枚横に並んでいる。蟇股を逆にしたような木の器に載せられている。中央が左右に比べて少し小さい。紙の灯籠がある。拝殿の梁には「大避神社」の扁額。木製の額に金色の文字で書かれている。奥の玉ぐし案の上には幣束が三つ立てられており、中央に丸い鏡が置かれている。錦旗や鉾などもあり、背後は格子戸になっている。幣殿であろうか。拝殿入り口の横に石灯籠があるが拝殿の左右にも切妻屋根の建物がついている。 (東京リース株式会社・顧問)
・「新羅神社考」に戻る ・「連載」に戻る |