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兵庫県の新羅神社(13)

回廊のような感じで中間は空間になっており、上下を板塀で護っている。左右の建物は絵馬堂といわれ、奉献された多くの絵馬と共に祭礼船の模型などが飾られている。龍神や船絵馬、武将の絵馬などが飾られている。拝殿の背後に本殿がある。七、八段の石段が架けられている。石段の両側には同じ高さの石垣が積まれ、その上に切り妻・瓦屋根を持った菱格子をもつ塀で囲まれている。その中に本殿の建物がある。拝殿と同様唐門付の入母屋の大きな建物である。入母屋の屋根には千鳥破風が着いているようであるが、深い森に囲まれている為に、樹木ではっきりと見えない。屋根は銅板葺のようである。備前国の牛窓には同じく秦氏の係わりの深い「牛窓神社」があるが、その本殿とよく似ている。牛窓神社の本殿は平面が正面三間、側面二間。正面一間に向拝をつける。屋根は千鳥破風付入母屋造、桧皮葺とし、向唐破風造の向拝をつける。拝おがみには鰭付蕪懸魚(ひれつきかぶらげぎょ)を吊り、妻飾(つまかざり)は虹梁に大瓶束(たいへいづか)をたて棟木を支える。軒は二軒繁棰(ふたのきしげたるき)である。社殿の特徴は屋根の形式で、近世初期に発達した新しい神社建築様式を伝えるもので、外観は床組が高く堂々たる社殿である。細部の意匠と技術は江戸時代後期の円熟したものになっていると説明されていた。多分同じような神殿であろう。

③ 神社の由緒

神社の祭神は天照皇大神・大避大明神(秦河勝公)・春日大神の三神である。中でも最も中心神であろうと考えられるのは秦氏の有力族長であった秦河勝であろう。神社発行の「大避神社」に記載の「ご由緒」には「御祭神秦河勝公は中国より渡来した秦氏の子孫で、氏の長として数朝に仕え、特に聖徳太子に寵任された。河勝公は会計制度を起こし、外国使臣来朝の際の接待役等多くの功績を残されている。太子より仏像を賜わり太秦に広隆寺を建立された事は有名である。また神楽を創作制定され、今日では猿楽の祖、あるいは能楽の祖として崇められている。河勝公は皇極三年(六四四)に、太子亡き後の蘇我入鹿の迫害をさけ、海路をたよって此々坂越浦にお着きになられ、千種川流域の開拓を推め、大化三年(六四七)に八十余才で薨ぜられた。河勝公の御霊は神仙化とし、村人が朝廷に願い出、祠を築き祀ったのが大避神社の創建と伝えられている。以来朝野の崇敬をあつめ・・赤穂藩主はもとより熊本藩主細川侯も代々江戸参勤の途中熊々坂越浦に船を停め神社に参詣されたといわれている。一方近在の村々三十余ケ村に、ご分社を祀り開拓神として今日も信仰されている。坂越が海上交通の要として栄え、航海安全の信仰を集めたことが、現存する船絵馬、石灯籠筥等によってもあきらかである。更に、河勝公の後裔である秦・川勝・河勝家の人々の崇敬をいただき、近年では航海安全はもとより、災難ざけ守護神として交通安全、厄除の神社としても信仰されている。」と記載されている。説明の中で秦河勝公が中国より渡来と書かれているが、秦氏は新羅系の渡来人というのが常識的であろう。更に、秦河勝が京都とその周辺に一族が広く居住していたにもかかわらず西に逃れ、なぜ坂越浦に逃げたのであろうか。恐らくこの辺りには備前地方を含めて秦氏一族が広く居住していたためであろう。「播磨鑑」には「聖徳太子の寵臣秦河勝は、皇極二年(六四三)九月十二日、蘇我入鹿の乱を避け、難波から船で坂越の生島に逃れてきたところ、坂越の浦人は彼を迎えて敬い、生島に葬り、神として祀った」とされる。神仏混淆時代には宝珠山妙見寺妙覚院となり、背後の山中に十数舎の僧坊が建てられた。「赤穂市史」によれば、兵庫県南西部の海岸は揖保川を境として、東の隆起性海岸と西の沈降性海岸に区分され、西には古来、天然の良港となる入り江や湾が多い。坂越湾もその一つで行基が定めたという摂播五泊の一つ室津や相生湾なども有名である。坂越湾は湾頭に生島があり、海浜の狭い平地に人家が密集している。周辺山地には「みかんのへた山古墳」(県指跡)(大避神社の東方一qの小島町の山中にある)をはじめ、高取山群集墳、高伏群集墳、小島群集墳などがある。また、生島や鍋島にも古墳がある。生島の古墳は古くは方墳とみられていたが、実測により円墳であることが確認されている。五世紀末より六世紀初めの木棺直葬墓か箱式石棺墓とみられる…更に古墳の被葬者は海とかかわりを持つ人で、この地域の生産・交易を支配した津長クラスの人物であろうとしている。この古墳の被葬者と秦氏のつながりは不明であるが、恐らく秦氏が勢力を持つ以前に、この地域を支配していた人々の墓であろうと推測している。祭神のうち、天照大神と春日大神(春日大社の神々)が祀られた経緯は不明である。この神社の旧の祭神は秦河勝と秦酒公であるが秦河勝を祀ったものであろう。因みに、山城国葛野郡にも秦氏ゆかりの大酒(大避)神社があり、祭神は秦始皇帝・弓月君・秦酒公である。

④ 境内社

当神社には境内社が多くあり、随神門の右手側の一角に区画された境内地があり、「恵美須神社」(蛭子神で元は本町海岸に鎮座)、その奥に、「天満神社」(道真公来浦の由縁で、天神山に鎮座していたものを当地に移転)が置かれている。拝殿の手前右側の山裾に石段があり、「荒神社」(竈神で元東ノ町に鎮座していた)、「稲荷神社」(元は生島に鎮座していた)、更に、拝殿や本殿のある境内地で拝殿の絵馬堂から続く回廊を通り「新宮」の建物がある。建物の扉に、紙が貼ってあり「新宮ご祭神」と書かれ、「聖徳太子・住吉大神・金刀比羅大神・海神社」と説明されている。聖徳太子以外の三座は海の神である。大きな瓦葺・庇付の流造の建物。当社の行事は一年中あり、一月の歳旦祭、三日初淡島祭、十五日とんど祭、二十五日初天神祭から始まり、十月第二土曜日例大祭、祭神墓前祭、宵宮祭、十月第二日曜日神幸式(無形文化財船渡御祭)、十二月三十一日の大祓式、除夜祭まで毎月ある。中でも十月の坂越の船祭りはと神幸式は瀬戸内三大船祭りの一つとして有名である。十二隻の和船と神輿による渡御は壮麗である。

⑤ 赤穂市と周辺の秦氏族と大避神社について

坂越の「大避神社・ご由緒」の記載に「近在の村三十余ケ村にご分社を祀り」とある通りに千種川の沿岸を中心として三十に余る「大避神社」が存在しているようである。これらの神社は殆どが分祀や勧請されたものであるので創祀の時期が不明であるものが多い。但し、赤穂市の周辺の地域に秦氏が存在した事は事実である。秦河勝との関係はともかく秦氏族との係わりのある神社であることは間違いない。「兵庫県の歴史散歩」(山川出版社)にも「大避(大酒)神社は千種川流域に多く、渡来人と考えられる秦氏は、坂越を拠点に千種川流域の開発を行ったものであろう」とある。確かに、千種川に沿って幾つかの大避神社が存在している。地図でみても@赤穂市木津山田(千種川の西)A中山の大避神社(千種川の西)B西有年(にしうね)にある大避神社(千種川の支流・長谷川の近く)C赤穂郡上郡町(かみごおりちょう)竹万字宮ケ丘(千種川の上流上郡町にある。JR山陽線の上郡駅の東にある。千種川と支流の安室川に挟まれた位置である。)D上郡町大枝新(おえだしん)にある大酒神社、E上郡町岩木にある大避神社(千種川の支流・岩木川の上流)などがすぐ見つかる。全部見たわけではないが、いずれの神社も石造の明神鳥居を持ち、拝殿は唐門付の向拝を持ち千鳥破風の入母屋造、本殿は坂越の大避神社の本殿と同じ造りであるようだ。境内地の大小はあるが皆同じような形態である。上郡町の北にある佐用郡上月(こうづき)町には大酒いう集落もある。明治十二年(一八七九)の「赤穂郡神社明細帳」には郡内の大避神社は二十一社記載がある。

ところで秦河勝が蘇我氏に追われて播磨に来たという証拠は残念ながら残っていない。しかし、伝承が何の根拠もなく作られることは考えにくい。河勝は川勝とも書かれる(「上宮聖徳法王帝説」など)が、秦河勝と播磨国との係わりを最初に記載しているのは、世阿弥の「花伝書」である。それによれば、「欽明天皇(五三一〜五七一)の時代、大和国の初瀬川に洪水が起った時に、川上から一つの壺が流れ着いた。なかには容姿がこの上なく美しいみどり子が入っており、三輪神社の鳥居の前でこれを発見した人々は、ただちに天皇に奏上した。その夜、天皇の夢枕にその子が現れ、自分は秦始皇帝の子孫だといい、やがて朝廷につかえて秦の姓を賜り、秦河勝と名乗った。聖徳太子は河勝に神楽を習わせ、子孫に伝えさせたが、これが猿楽の起源だという。そして、河勝は難波の浦より、うつぼ船にのり、風にまかせて、西海にでた。播磨国、坂越の浦に着く。浦人舟をあけて見れば、形人とは似つかぬ姿にかわれり。諸人に憑(つ)き祟(たた)りて奇瑞(きずい)をなすので、神と崇めて祀り国が豊になった。おうき(大)にあるる(荒)と書きて大荒(おおさけ)明神と名づけた。上宮太子(聖徳太子)、…」。とある。世阿弥の「花伝書」は応永九年(一四〇二)に編纂されたといわれているが、この頃には既に、秦河勝が播磨国に来着したという伝承が存在していたことは考えられる。また、世阿弥が能楽の創始者としての秦河勝の子孫であるということを大避神社の祭神と結びつけてこのような創作をしたとも考えられる。世阿弥の娘婿で、同じく秦氏(はたし)を名乗った金春禅竹(こんぱるぜんちく)は「明宿集」を著したが、世阿弥の「花伝書」と同様な話を載せている。



(東京リース株式会社・顧問)





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