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兵庫県の新羅神社(14) 「世を背(そむ)き、空舟(うつぼふね)に乗り、西海に浮かび給いしが、播磨国の南波尺師(なんばしゃくし)の浦に寄る。…大きに荒るる神と申す。すなわち大荒(おおさけ)神にてまします也。その後、坂越(さこし)(尺師)の浦に崇め、宮造りす。次に同国山の里に移したてまつりて、宮造りおびただしくて、西海道を守り給ふ。所の人猿楽の宮とも、宿神とも申したてまつる」とある。宿神とは辺境にあって邪気・怨霊の侵入を防ぐ神のことである。先の記述が全くのでたらめというわけでもないのであろうが、世阿弥が秦氏としての系譜を大避神社を通じて秦河勝と結びつけたのであろう。坂越の大避神社はこの辺りに渡来、居住した秦氏が地域開拓の神として、また水利の神として、この地域の人々とその生活に密着して厚く信仰されてきたものであろう。大避は土木技術が大地を裂くような様子を表現したもので大裂神と名づけられたともいわれる。播磨国に秦氏が広く分布していたことは事実であり、天日槍の伝承でも確認できる。大避神の信仰が秦氏一族の生活とともにあったということであろう。 四、尼崎市の白井神社 (一)尼崎市について 尼崎に対するイメージは、工業都市である。大阪(伊丹)空港に隣接し、阪神臨海工業都市として発展してきたためである。特に明治二十二年創業の尼崎紡績(現在のユニチカ)、明治三十二年設立の阪神電鉄の発電所建設などに伴い、尼崎港は活況を呈し、伊丹の酒も尼崎港から船積みされていたようである。今も尼崎の菰樽造りは有名。また石工も独特の技術で名高い。しかし、古代の尼崎市は大阪市の北西部を含んだ摂津国の一部であった。丹波の山地より流れでる猪名川(中島川)(兵庫と大阪の県境)と西の武庫川に挟まれた地域である。西摂平野、尼崎平野ともいう。当市の北部の一部は洪積層からなる伊丹段丘の台地であるが、その他の大部分は沖積地帯にある(縄文以前は大部分が海)。古代には摂津国・河辺郡(かわへ)、為奈(いな)郷と言われ、「仁徳紀」に猪名(いな)県、「万葉集」に猪名(いな)野、「続日本後紀」に為奈野(いなの)、「住吉神代記(すみよしじんだいき)」に為奈(いな)山などと見える。なお、当市には武庫郡の一部も含まれている。当地は難波の海(現・大阪湾)に注ぐ猪名川と武庫川の間に位置し、その間に庄下川、蓬川などがある。猪名川の上流は幾つかの支流が集まり、伊丹の辺りで合流する。その後、神津大橋を過ぎると大きく分岐し、猪名川(東)と藻川(西)となり中間に大きな陸地を造っていて田能、東園田町などが存在する。この両川は東園田町の南で再び合流、更に、南で神崎川と合流し、更にJR東海道線の南で神崎川と左門殿川に分岐、その先で再び合流して中島川となり、大阪湾に注いでいる。尼崎を流れる川はそれぞれ港を持ち、猪名浦、武庫浦などといわれた。少し西には務古水門、敏売浦(みぬめうら)、大輪田泊(おおわだのとまり)がある。摂津国は南端が今の住吉大社の辺りであり、西は現在の神戸の辺り(八部(やたへ)郡)までの大きな国であった。住吉大社は難波津の守護神。摂津国には神功皇后に係る伝承が多く、尼崎の海岸も神功皇后に係る伝承が多い。「摂津国風土記」(逸文)の美奴売(みぬめ)松原の条に「美奴売(みぬめ)の松原。今、美奴売というは、神の名なり。その神は、本(もと)、能勢(のせ)の郡(こほり)の美奴売山(みぬめやま)に居りき。昔、息長帯比売(おきながたらしひめ)の天皇(すめらみこと)、筑紫の国に幸(いでま)しし時、諸(もろもろ)の神祇(かみたち)を川辺(かわのべ)の郡(こほり)の内の神前(かむざき)の松原に集(つど)へて、福(さきはひ)を求禮(ね)ぎたまひき。時にこの神も亦同じく集いて…」とある。 当地は渡来系の人々の居住で知られているが、伊丹丘陵の北部の摂津国には秦氏の集団があって、また伊丹丘陵から南の猪名(いな)川沿いには猪名部(いなべ)という新羅系渡来人の木工技術集団(船匠)がいた。彼らの居住地であった猪名庄は天平勝宝八年(七五六)に東大寺の庄園となっている。猪名部の祖は応神朝に渡来したといわれているが(「応神紀三十一年」)、雄略紀にも登場する。当地のほか伊勢、越前の居住が知られている。尼崎市には白井神社という名称の神社が四社あり、いずれも古くは新羅神社であった可能性が強いといわれている。 (二)当地の古代遺跡について 縄文時代の遺跡が猪名川川床と藻川から発見されている。弥生時代(紀元前三―二紀頃)の遺跡も田能猪名川川床、田能中ノ坪、東園田藻川川床、栗山庄下川川床、上ノ島、椎堂遺跡など多い。更に、周辺の遺跡の中で、弥生時代中期の芦屋市会下山遺跡や、神戸市東灘区の保久良山遺跡がある。これらの遺跡は祭祀場の遺跡を備えている。神戸市の保久良神社境内遺跡の祭祀場は、航海の安全と祖神を祭る場所であったものであろう。現在の神社の祭神の一人に、大阪湾の初期海上支配者と伝承されている椎根津彦命がいることからみて、この地が大阪湾と一帯であったことが判る。弥生時代後期には大阪湾沿岸地帯でも大量の銅鐸がみられるが、「銅鐸の消滅と共に、農耕を中心とした祭祀的性格の強い弥生時代の首長層は、次の古墳時代にみられるような武人的性格を備えた首長層へと脱皮していく」(『尼崎市史』)ことは他の地域と同じである。白井神社のある東園田町の周辺には弥生時代の遺跡が多い。東園田町の北隣は田能遺跡、藻川を渡ると猪名野廃止跡のある猪名寺遺跡がある。東園田町や富田、西川遺跡などを含めて、猪名川や藻川の川床からもたくさんの遺跡や遺物が出土している。古墳時代の遺跡も同じ地区で見られる。「古墳時代の遺跡は、古代から現代に至る間の開発で、大半が荒廃、或いは消滅している。主要なものでは、水堂古墳・天狗塚古墳・伊居太古墳・御園古墳・池田山古墳・田能・園田競馬場内・猪名寺・善法寺・額田弥生が丘墓園内(古墳時代後期の窯跡―当地域は弥生時代以来の土器が豊富に出土している)・東園田藻川川床などである」(『尼崎市史』) (三)白井神社を訪ねる 尼崎市には白井神社が四社ある。猪名川と藻川の間の地にあたる東園田町に二社、藻川の西にある善法寺町と額田町に各一社ずつある。総本社と思われる神社は、尼崎市東園田町四の穴太にある白井神社である。 1 東園田町の白井神社 ①白井神社(旧称は白井天王宮) 祭神は天之手力男命(「紀」に天手力男神(あまのたちからおのかみ)―手に力のある男神・「記」も同じ)、保食命である。 当社は東園田四丁目四八番地(旧園田村穴太字神楽田)にある。当地の総本社ではないかと思われる。当社へは阪急電車の神戸線・園田駅で降り、駅前の道を200〜300m西に歩くと県道四一号に突き当たるのでその交差点を右折(北の方向)する。道路の左側に東園田公園がある。交通事故が多いのか横断歩道にガードマンが二人もいた。阪急神戸線のガードの下である。100mほどで右手に園和小学校が見える。 (東京リース株式会社・顧問)
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