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兵庫県の新羅神社(17) 五、旧の但馬国の新羅神社 古代の但馬地方は京都の丹後(丹波も含む)地方と同一の文化圏を形成していたことには「京都府の新羅神社」(4)の五などで触れた。本稿は但馬国でも、特に城崎を中心とした地方の訪問であるので前記の内容とは趣を異にして天日槍命と出石神社について記述させていただいた。なお、但馬国は古事記には多遅摩国と記載されている。丹後地方は京都の一部を形成する一方で但馬の南の地域である播磨(針間)地方とも往来があった。丹後を含む近隣の地域には新羅神社が幾つか存在したことは既にみた。今回はその西方に位置する、いわゆる但馬の日本海沿岸地方、特に久美浜町の西、円山川の河口や支流を持つ城崎郡や出石郡などの地方に新羅系の渡来文化が繁栄していたことを示す神社をみた。 1 地理的な環境 円山川は城崎と姫路の中間に位置する朝来(あさご)郡の多々良木地方(中国山地の東部)の南・生野に近い山岳地帯に水源をもつ大河である。この川は出石町を流れる出石川(丹波高地に源流)と現在の豊岡市賀陽(かや)と八社宮(はさみ)の間で合流し、更に奈佐川なども合流し北上、日本海の津居山湾に注がれる。円山川の大きさを見るには、この流域の中に砂州や入江などが存在していることを見てもわかる。古代の円山川は現在よりも相当大きく内陸にまで入り込んでいたと思われる。出石川も同じで円山川と共に大河であったので船で入り込めたようである。津居山をもつ城崎町と出石町の中間にある豊岡盆地はかつて日本海に接した入江湖が隆起、それに円山川の沖積作用が重なって形成されたといわれている。豊岡盆地の東にも丹後山地があり、出石の西も丹後山地であるので、これらの地は山地の中である。丹後山地の東には丹波高地、その東は琵琶湖西岸の比良(ひら)山地である。丹後山地の西は中国山地。更に北は豊岡盆地、南に福知山盆地、篠山盆地があり、その南は六甲山地と続く。円山川の源流がある中国山地の生野の山岳地帯からは播磨の姫路地方に下る市川の源流もあるので、円山川と市川を利用すれば日本海から姫路(播磨国)の播磨灘(瀬戸内海)に至ることができる。市川の下流域には広嶺山があり、白国(新羅国)や白国(しらくに)(新羅国)神社などがあり、また、播磨灘に近い四郷明田にも新羅神社が祀られている。ここも市川の沖積地であろう。この様子をみると但馬には瀬戸内海からの文化も伝わったことが推測される。更に瀬戸内海を運ばれた文化が加古川の流れを利用して丹波国の氷上盆地(標高200メートル)を経由、その後、由良川などを利用して但馬国にも伝わった可能性もある。 2 但馬国と天日槍 記の応神天皇の条には、新羅から渡来の天日槍が難波に上陸できずに多遅摩国(たぢまのくに)(但馬国)に還り、多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘、前津見(まえつみ)を娶り、多遅摩母呂須玖(たじまもろすく)を生んだことが記載されている。多遅摩氏族は物部の一族であるといわれるので天日槍は物部氏と縁戚関係を持ったということになる。しかし、海外から来た人物がいきなり古代日本における最大の豪族と婚姻関係をもつということは常識ではありえない。恐らく祖国における何らかの関係があったということであろう(同じ神を祀る氏族とか)。韓国では現在でも祖を同じくし、同じ祖から派生した者どうしの結婚は認められないという。一方で紀の垂仁天皇三年の条には出石の人の太耳(ふとみみ)の娘、麻多烏(まとお)を娶り但馬諸助(たじまもろすく)を生んだと記載とがあり、同天皇八十八年の条にも、昔、天日槍が但馬の前津耳(まえつみみ)の娘、痲た能烏(またのお)を娶り但馬諸助を生んだとある。記の記載は父親・タジマノマタオ、娘マエツミミ、紀の記載は父親・フトミミあるいはマエツミミ、娘・マタオまたはマタノオとなっている。それぞれの記載でマタオとマエツミミが父と娘の双方に見られるので、伝承の中で話が混同されたものと思われる。いずれにしても記述からみると、四世紀の中頃、記の記述によれば四世紀後半〜五世紀初頃のことであろう。 3 天日槍とその一族がもたらしたもの この天日槍は記紀で唯一、天(あめ)の着く名前となっている。天(あめ・あま)は神につく名称である。この新羅から渡来の王子だという天日槍(あめのひぼこ)(記には天之日矛)が当時の日本国をめぐった後に永住したと伝えられている地が出石地方である。出石地方にある出石(いずし)神社(式には伊豆志坐神社八座とある)は出石川の中流の出石郡出石にある。出石川は出石で奥山川と合流している。出石川もかつては大河であった名残か付近には長砂、嶋、伊豆などの地名が残っている。天日槍と但馬の係わりについては、当時、泥海であった但馬を瀬戸・津居山の間の岩山を切り開いて濁流を日本海に落として陸地化して但馬国を作ったという国造り伝承がある。それが現在の肥沃な但馬平野である。円山川の治水事業や殖産事業にも功績を残したといわれている。天日槍の使った鉄の道具は出石の奥の鉄鈷山から原料の鉄を採取し但東町にある畑の鍛冶という家で造られたという。優れた技術や文化を持っていたことが判る。更に、記には御(み)出石神社(出石神社の南東にある桐野)の祭神である天日槍の娘・伊豆志袁登売(いずしおとめ)をめぐり諸神の求婚があり、特に秋山下永壮夫(あきやまのしたびのおとこ)と春山霞壮夫(はるやまのかすみのおとこ)の争いを描いている。弟神が母親の助けを得て勝つのであるが、乙女を天日槍に代表される渡来の神、兄弟を在来の先住者の一族と想定すれば、新しく生きる渡来者集団が先住の人々を圧倒してその地方の支配権を得るプロセスと考えられる。大和における饒速日命(にぎはやひひの)と長髄彦(ながすねひこ)の妹の話も同じ種類のものである。更に重要なことは、この天日槍命が現在の天皇家の三種の神器の原形ともいうべき神宝をもたらしたことである。紀には羽太(はふと)の玉、足高の玉、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉、出石の小刀(かたな)、出石の鉾、日鏡、熊の神籬(ひもろぎ)の七種、一説によるとして、葉細の珠、足高の珠、…出石の槍、日の鏡、熊の神籬、胆峡浅(いささ)の太刀の八種としている。記では珠(たま)、浪振る領巾(ひれ)、浪切る領巾、風振る領巾、奥津(おきつ)鏡、辺津(へつ)鏡の八種である。奥津鏡と辺津鏡は丹後の元伊勢といわれ籠(この)神社(宮司である海部(あまべ)氏の系図は国宝で天皇家の系図より古いといわれている)に保管されている。この神社の系図によれば、記の古代神話にある天孫降臨の、邇邇芸命(ににぎのみこと)の兄となっている彦火明命(ひこほあかりのみこと)(饒速日命(にぎはやひのみこと))が海部氏の祖で、この神が大和及び丹波・丹後地方に降臨したと記載されている(系図では天火明命は天孫瓊瓊杵命の弟)。また、紀では彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)の兄とされる彦火明命であるとしている。そして、社伝によれば、天孫彦火明命は十種神宝(とくさのかんだから)を将来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしだまにぎはやひ)であるという。垂仁紀には天日槍の曾孫の清彦に天日槍の将来した神宝を大和王権が召し上げる記事があるが但馬清彦が抵抗して刀子(かたな)が天皇の元から淡路島に飛んだとしている(淡路島の洲本市には出石神社がある)。四世紀の後半頃のことと推測されるがこの頃から大和王権が但馬を支配下に置こうとしたことがわかる。しかし、但馬が大和王権の支配下に入るのは後のことである。現在、これらの神宝は残っていないが式の名称に八座とあるところをみると八種の神宝の話が当時伝承として残っていたためであろう。 4 出石神社
出石神社は神社の由緒略記によれば、国土開発の祖神、但馬国一の宮で社名は、古くは出石大神宮、出石大社、伊豆志坐神社八座、明治になってからは出石神社となった。祭神は天日槍命の招来した八種の神宝を八前の大神とし、併せて天日槍の御霊を祀っている。当社の境内地からは縄文、弥生時代の石器や土器をはじめ多くの遺物が出土している。神社の前面にはかつての条里制の地割の跡が見られ、弥生時代の宮内遺跡と黒田遺跡と一帯の土地であり、弥生時代前期の土器片が出ていることから、但馬で最も早く、水稲耕作が行われていたとみられている。現在の社殿は南向きであるが、かつては出石川の方(西面)を向いていたようである。当社の参道は真西に向かい出石川にかかる鳥井橋を経て鳥井地区に一の鳥居があったようである。何故ならば、鳥居橋の袂から大きな二の鳥居の残欠が発見されているからである。社殿は現在でも伝統と格式を感じる立派な鳥居と神殿からなっている。社殿は拝殿と本殿からなるが、本殿は三間社流造で前面に弊殿と祝詞殿がある。神門は丹塗り(にぬり)の八脚門。境内の東北地に約三〇〇坪の禁足地があり、鬱蒼と茂る原始林があり、入れば祟りがあるといわれている。天日槍の廟所といわれているので、ここには神宝が埋められていたのかもしれない。しかし、当社は何回も火災にあっているので、かつての面影はない。訪れる人も少なく寂しい感じがした。神社の創設の年代は不明であるが社記によれば、谿羽道主命(たにはみちぬしのみこと)と多遅痲比那良岐命(たじまひならきのみこと)(記応神の条によれば、天日槍の祖孫)と相謀って、天日槍命を祀ったと伝えているが、諸書によれば、奈良時代にはすでに山陰地方有数の大社であったという。鉄の文化を大陸から伝えた神といわれている。 5 城崎郡にある新羅系の神社 旧の城崎郡は現在の豊岡市であるが、城崎郡は豊岡盆地の北限に位置しており、中央に津居山湾に注ぐ円山川と気比川を持ち東西を低山地で囲まれている。東の低山地を越えると、湊村である。北方は日本海の波打ち際まで岩山がせり出しており、全く平地がない。唯一、気比川が注いでいる天神浜のみが砂浜である。港東部は三方を高い岩山に囲まれており津居山湾から南に僅かな低地が畑上の集落に向かって伸びている。津居山湾からおよそ5qの範囲である。この地を流れる谷川の両岸に狭い耕作地がみえる。古代の円山川は相当広かったらしく、現在でも湖沼が沢山残っている。砂州や川跡も残っている。城崎駅の東の円山川は楽々浦(ささうら)という大きな湖のような河口をもっている。飯谷(はんだに)川が注いでいる。神社はこれらの低地や低地から少し山裾に入った場所にある。港町は明治に七村が一緒になってできたものであるが、丹後に近い三原の集落は往古より丹後との往来が多かったようである。 (東京リース株式会社・顧問)
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