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兵庫県の新羅神社(18)

当地方にも古墳が幾つかあり、円山川の河口の集落である小島には変形した前方後円墳(石棺)、瀬戸の集落には野ケ谷古墳、島原古墳、気比の絹巻山古墳群(円墳)、田結の風谷古墳などがあり、石棺や銅鐸、銅鏡などが見つかっている。また、正安年中の古文書(兵庫県神社誌出石神社の項など)には出石神社に対し魚介を神代からの仔細の通りに相務めたことが記録されており、天日槍(あめのひぼこ)の威光がこの地にまで及んでいたことが推察される。また、当村は古くから津居山港を中心に各地と海上交通を行っていた。古い県地誌(明治十六年版兵庫県管内地誌要略)には、「津居山港は国の東北隅、円山川の河口にありて、北日本海に臨み、北海航行の船舶皆此の港に雲集して需要を足し、或いは風浪を避けて停泊す、蓋し国中第一の良港たり、津居山は一の嶋嶼にして・・・一たび登臨すれば、海色山影一目にして集まり水天に連なる処、彷彿満州朝鮮を望むべし・・・」と記されている。

1 気比神社

一方、津居山湾に注ぐ円山川と並行して流れる気比川がある。現在は港村の気比という集落が存在しているが、この地は古代には津居山湾の入り江が深く入り込んでいたと思われる場所である。津居山湾に近い、気比川のほとりに大きな石燈籠が一基建っている。鳥居と同じくらいの高さである。神社は西向きで気比川(西)を向いている。神社は背後の山の裾にある森の中にある。川辺にある石燈籠から推測すると現在の川より西、円山川との中洲あたりに一の鳥居があったものと思われる。鳥居の左に石造の二段の台の上に気け比い神社と書かれた石碑があり、その更に左には小さな石が積まれたこんもりとした台地がある。天日槍の墓であろうか。本殿は覆屋の中にあり、流造である。境内は花ミョウガの群生地になっているが、神社の近くには何もない。集落は気比川の西にある。気比神社の祭神は大気比日子命(おおけいひこのみこと)、相殿に仲哀天皇、神功皇后を祀る。神社の由緒については上古神功皇后が三韓征伐の途に上らせ給うみぎり、越前角鹿(敦賀)より穴門(長門)に向かい給う道すがら、若狭・加佐・与佐・竹野の海(丹後)を経て多遅麻国三島の水門(みと)に、しばらく仮泊あらせられ、舟揖を備え、兵食を蓄え給いしと。而して、その一夜越前に坐ます伊奢沙別(いざさわけ)命が皇后の霊夢に立たせられ、船を以て海を渡らばすべからく、住吉の神(底・中・表筒男神)を船玉大神として、御食飯(みけい)を献り、且つ伊奢沙別命をもねんごろに祀り給ひしという。この故により、この地を気比の浦と呼び、其の御社を創建し気比神社と申し、その後、仲哀天皇と神功皇后とを合わせ祀った。而して伊奢沙別命の御別名を気比大神と称え申すので、当社ではたたえことばの大(おお)を添えて、大気比日子命と畏み申すのである。因みに、御霊代は安永九年(一七八〇)八月二日再興造立、社殿は寛政六年(一七九四)の再営である(「港村誌」)また、同誌にはこの神社が気比の村にあったことから、祭神は豊受気比売(とようけひめ)の略記かとの神名帳考証の見方を掲げ、古い村の古社であるとしている。大正元年、この神社から二〇〇mくらい港寄りの場所から銅鐸が発掘され、現在は碑と共に出土した時の岩窟がそのまま保存されている。気比村鷲崎といい、岩窟を破壊した時に偶然岩窟から四個の銅鐸が発見された。かつての海岸の岩礁の一角で岩礁の背後の岩窟内に置かれてあった。銅鐸は石像を刻んだ巨岩の裏側で、他の二つの岩により自然の小洞窟を形成していたらしい。天井石はなかった。覆土は一m五〇cm程度。いずれにしても銅鐸を祭祀する集団がこの地に居住していたことを示すものであろう。

(東京リース株式会社・顧問)




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