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広島県の新羅神社 神社までは車で一〇分足らずであるが、太田川の沖積地の丘の上にあり、森に囲まれた山裾にあるので見つけにくい。神社のある場所は小高い山の山頂のような高台にある。神殿の周囲には老木が繁っており見つけにくく、また神社の周囲には石垣が積まれている。正面の石段は南向きにあるが、古く苔さびて少しくずれた感じで、歴史を感じさせる。また、西側の参道は西側に石垣がある簡素できれいな道である。神社の裏手の山の中腹には開発されて広島経済大学の大きなキャンパスが広がっていた。神社の近くには長う子(ながうね)遺跡、芳ヶ谷、大谷遺跡などの遺跡が発掘されている(弥生式、中、後期の遺跡)。新羅神社の境内に新しい説明文が日本語と英語で書かれている。「創建は鎌倉時代後期の正安二年(一三〇〇)に安芸国守護職であった武田信宗によって甲斐から勧請された。祭神には清和源氏の武田氏の先祖である源義光(新羅三郎ともいい、平安中期の武将)が祭られ、安芸武田氏の守護神として武田氏が滅びるまで崇敬が厚かった。銀山城落城後は衰微の一途をたどったが、その後里人がよくこれを組持し、この里の氏神として祭ってきた」神社の建物は元々は草葺の古い社であったが、昭和十三年に再建した木造建であり、あまり大きくはないが清潔感のあるしっかりした建物であった。本殿は石垣の上にあり流造の建物であるが、屋根の上部は千木と堅魚木のある珍しい型である。いわゆる住吉造のような屋根である。御神体は新羅三郎義光の木像。『芸藩通誌』によれば「武田氏、その祖新羅三郎義光を祭りしという。土人なまって新田八幡と称す」とある。古老の口碑には伏見天皇正安二年武田信宗が当時守護であった時、この地に勧請し以後光和に至るまで崇敬が厚かったが、天文十年(一五四一)大内義隆による落城後は全く衰微の一途をたどった。里人よくこれを維持してついにこの里の氏神として祀ってきたものであるという(『祇園町誌』)。 二、新羅神社と武田氏の墓
新羅神社は武田山の麓にあるので、JR可部線から見ると小高い丘にこんもりとした森として見ることができる。武田山は安芸の守護であった武田氏の本城銀山城が築かれていた山を武田氏に因んで、武田山と呼んだものである。 (東京リース株式会社・顧問)
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