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広島県の新羅神社 源頼信は厳島神社神主佐伯景弘(かげひろ)に三田郷を寄進。その後、子の頼綱が相続する。頼綱は別名を可部(かべ)源三郎とも称し、可部に本拠を置いた(『広島県の歴史』)という。その後、源平の内乱の後に源頼朝により甲斐源氏の武田信光を安芸の守護に補任する。甲斐と安芸の二つの国の守護となり、子信政ともども甲斐に住み家来の福島氏を守護代として遣わしていた。当時安佐南区の川内(かわうち)に住み、水軍を持つ大勢力であったという。銀山城は鎌倉時代の末期、信武の父信宗により築かれたという。信宗は蒙古来襲に際し、安芸国に在国し大活躍をしたといわれる武田信時の孫に当たる。信時は信光の孫であるが、安芸に移り祇園の地に住んだ。一二七四年、蒙古襲来時に元軍と戦うため甲斐から安芸に移った。銀山城の最後の城主は武田信光或いは光広ともいわれている。氏信から数えると十一代目である。その後、信武が建武二年(一三三五)足利尊氏に応じて挙兵、毛利・吉川・熊谷などの有力武士もこれに応じた。信武は安芸、甲斐に本拠を持ったが、子の信成、氏信はもっぱら安芸に本拠を構えた。その後、信成の子孫は武田信玄の系図を生み、氏信の子孫は安芸武田と若狭武田に分かれる。 三、祇園町の神社 『町誌』によれば、祇はキ・ギ・シと読み、くにつかみ、地の神、すべての神の称であるという。この町には町の面積に比して神社が多い。長束神社(息長帯日売命が新羅征討に向かう折に御懐妊の身で当村鳥越村に立ち寄られ、その際腹に巻き締められた腹帯を巻き替えられた。その時帯の中に収められてあった石を落され、これを本社殿に納めて現在に至るという。また明治以前は八幡宮といわれたという)。須佐神社(須佐之男命)、若宮神社(仁徳天皇)、龍王神社(武田氏の出城跡)、安神社(須佐之男命、稲田姫命)、お祇園さんといわれ安佐郡の総社であった。出雲の宮の神を勧請したといわれているが、遷座の年代は不詳。但し、元慶五年(八八一)に祖殿が再建されている。また、安芸津彦神社(安芸津彦神、安芸津姫神)の祭神・安芸津彦神は阿岐国造饒速玉命の祖神ともいわれているが、神社の由緒書に「神武天皇このあたりを通り給いしに、山の尾崎に一つの宮あり、安芸津彦の神にておわします。この安芸津彦の神と申し奉るは、伊勢津彦、吉備津彦の如く、その国にましますが故にかゝる御名あり。天皇この神に伺い給い朝敵退治のことを祈り給い上なる山に火を挙げ給えば、官軍日に増し来りて味方あまたになりぬ。かくて塩の口というところより御船を出し帆を挙げ給い、埃の宮に至り給う。されば今も同郡新庄村に天皇という社あり、また地名に天皇山、天皇田というものあり。・・彼の旧跡を南の御所とも、御門ともいう。・・」。その他にも多くの神社があり、信仰深い人々が住んでいたことであろうし、入植者が多かったのかも知れない。 四、安佐北区の白木町と神社
広島駅からJR芸備線に乗る。芸備線は太田川と三篠川が合流する地点までは可部線と並行して走る。太田川が東西に分かれるところで、西側が可部線、東側が芸備線で、芸備線は三篠川に沿って東へ曲がる。白木町の最初の駅は白木山駅である。広島駅から三十分余。西側は漢弁(からべ)郷の可部町である。漢弁の漢からは韓或いは加羅である。芸備線は山間地のわずかな平地部を走る。車窓から見ていると線路の西側は畑が作られており、笹、大根、柿の木などと共に、あやめや菊の花等の庭が見られ、田舎の古びた民家の点在する景色が続く。民家には石垣が積まれていて、民家のある山裾には墓が多い。白木町に入る少し手前の下深川駅で、六両の電車は二両に減って三次まで走る。下深川、中、上深川、狩留(かるが)家駅を過ぎると白木山駅である。三篠川に沿った県道には「ようこそ白木町」の看板がでている。白木町は広島市の中心部から三十分程離れた中国山脈中の山間地である。白木町は広い。古くは三田郷と呼ばれ、上白木と下白木に分かれていたようである。上白木は現在の秋山、小越の辺りと考えられるが、現在の白木町は昭和三十年七月に三田村、秋山村、志路村など七村の合併によりできた町である。
(東京リース株式会社・顧問)
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