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広島県の新羅神社

白木出張所がある志和口駅の近くに亀山神社がある。市川村である(町史には小田迫八幡宮とある)。当社には天文七年(一五三八)の棟札があり、「奉造立八幡菩薩御宝殿一宇、・・護持大檀那源元盛、大工石井七郎衛門尉・・」とあり、その後正保二年(一六四五)川野十兵衛再建、大破の後、寛政五年(一七九三)牛頭天王、大神宮、河内神(栃谷八幡、桧山八幡、大寺八方荒神、正木伊勢宮)金比羅の五神を合祀し、再建。その為に一社ながら神により祭主が異なり、志路村、佐伯市が祭祀を行う中で、大神宮のみは御前の三田村長屋氏が祭祀を行ったとある。小高い丘陵の上にあり、鳥居や参道は整備されているが、神社は古びて簡単な木造建トタン屋根の八幡造と同じような形である。前殿は入母屋造ではあるが狐格子の屋根以外は柱のみで、後殿は向拝があり、向拝の下には木造の鳥居の付いた珍しい建物である。建物の木は風化されて古びたもので、境内は荒れた感じであった。井原村には新宮(しんぐう)神社(高山八幡宮)があり、徳受新宮大明神ともいわれ、十三世紀の文永年中、井原村の城主樋爪氏が再建したともいう。白木町で一番立派な神社といわれている。神社の社殿も寺が入っており、鳥居や注連も手を入れてあり、鳥居は朱色が塗られ、笠木の部分には切妻屋根を乗せた棟門となっているようであった。宮司の話によれば、「白木町には町の総社や一の宮はない。それぞれの郷に守り神があったという。後代、厳島神社の支配下にあった」とのことであった。新宮神社は和歌山県熊野にある速玉大社と同じである。当地の祭神も速玉之男尊(いざなぎの命)・伊邪那美尊(速玉大社では熊野結大神)。いずれにしても熊野新宮神社と関係がありそうである。相寺古墳に近い中山神社(小越村)は中山八幡宮ともいわれたが、由緒不詳。秋山寺の朝城神社は平野山新宮大明神ともいわれ、秋山八幡宮は文明七年(一四七五)、源朝臣小笠原親次再建の棟札があったといわれている。これ以外にも宮崎八幡宮、出雲八幡、栗原、宮原八幡など、八幡宮と新宮がやたらと目に付く。『白木町史』には「明治十年神社改めに際し、古神名帳の明神名に復した神社が多い。それには、それぞれ由緒や申伝があっての事と思われるが、神蔵明神(神蔵神社)のほかは理由を詳かにすることができない。芸藩通史により次に古神名を記して参考とする」などとして古神名には神蔵明神、神田明神、葛木明神、三輪明神、国前明神、朝城明神等の名が掲げられている。それ以外にも高山八幡社(白木町井原)この神社は大きな森の中にある。狭い道路の脇に大きな石柱が立っており、広さ二mくらいの参道は五〇〜六〇mで左折して大きな山裾の森の中に入る。参道を登ると石段があり、その上に木造の両部鳥居がある。比較的新しく、「八幡宮」の扁額が掲げてある。鳥居の背後の若干高い台地の上に社殿がある。鳥居の左手に社務所があるが余り立派な建物ではない。人はいない。本殿は三間三間社流れ造、向拝付。銅板葺屋根、当社にはお旅所があるとのこと。白木町井原五二二坪。由緒─建中年中(一一九〇〜一一九九)山城国の男山(石清水八幡宮)より勧請。その建治三年、井原の城主樋爪氏が再建したが、明治四二年境内社の厳島神社を本社に合祀。現在の本殿は十八世紀前期の再建である。(『広島神社誌』)当社の本殿は荒れた感じはするが神楽殿なとは再建されており、ひとの手がはいっている。祭神・帯中津彦命、品陀和気命、息長帯比売命、天照皇大御神、多紀理毘売命、市寸島毘売命。例祭十月第三日曜日。ほかにも、新宮神社(しんぐうさん)白木町井原字下新宮、中山神社(白木町小越居)旧称中山八幡宮。祭神・祭神息長帯比売命・品陀和気命・玉依毘売命・天照皇大御神、崇徳天皇、宇気母知神。実相寺古墳に近い山麓にある。大きな石の柱の鳥居は明神鳥居、一方の柱に奉献、高雄太沖、左の柱には明治一二年卯秋と刻まれている。石段を登る。両部鳥居が現れる。木造で相当古い。三、四〇メートル奥に二基の高い石灯篭と社殿が見える。周囲はすべて森の木々。本殿のみで二間社流れ造。瓦葺。組高覧がついている。相当古い建物。境内七七一坪。「広島県神社誌によれば旧本殿は三間社流造瓦葺、幣殿、拝殿、神楽殿をもつとある。例祭十一月三日、由緒・中世の小越村の小田山に城が築かれて小田城と称したが、その後吉田郡山城の毛利氏山城の毛利氏がこの地方一帯を支配下とし、小田城は廃城となった。その隣地方の住民が神社を受け継いで小越村の氏神を受け継いで小越村の氏神として祀るようになったと伝えられる。」この神社も境内は広い。白木町は新宮神社の宮司の話のように氏神として祀っていたわけであり、神社の数も非常に多い。更に八幡社が多い。祭神は応神天皇と仲哀天皇、息長帯姫や天神及び国造りの神々を祀っている。しかし、この祭神のほとんどは後世に加えられたもので、もともとは地主神の一神であった。更に神社名も八幡はさほどなかった。当地に存在した城はほとんど毛利氏によって廃城になり、その後関ヶ原で毛利氏が敗れ、毛利氏の支配がなくなった。その後も度重なる支配者の交代があり、神社名や祭神も「記紀」の神を入れて無難な神々に変えた無難な神々としたのであろう。例えば亀山神社は亀崎神社あるいは弥都波能売神(みずはめはのかみ)(水神)あるいは、須佐之男命、または呉市の亀山神社と同じ新羅の比売語曽の神であったであろう。新宮神社も弥都波能売神(水神)であり、この神は亀山神社と度同様であったのかもしれない。この神は亀山神社と同様なのかも知れない。なお、白木町には白木町古谷に出崎嶺(でさきやま)神社、志路の宮崎神社が出雲系の神を祀っている。理解に苦しむが「広島県身神社誌」には多くの神社の祭神の説明があるにも拘わらず、白木町史では不明としている。また、白木村井原に荒神社があり、こんじんさんと呼ばれた。八坂神社ともいわれたようである。木造の鳥居と二間社流れ造り瓦葺の社殿。木々で覆われている。要するに、この地域の神社に係る歴史はよく判らないという。更に『町史』によれば、平氏滅亡の後、東国武士の西遷があり、明神の近くに鍋谷城が築かれた。武士が奉祀した神は八幡と新宮とであった。白木村は永和三年(一三七七)内藤道泰が安芸国長田、保垣上下、高田原、井原郷、宮司名及び甲斐国藤太郷を子息重廉に譲っているので、内藤氏が領有、貞和元年(一三四五)には三田郷地頭市川行瀬がいて、市川氏は佐東銀山城の武田氏の一族であり、市川氏が住んだ地が市川となったという。甲斐源氏と市川とのつながりは、源義光の三男善清が常陸国から甲斐に流され(大治五年・一一三〇)市川庄に館を構えた(現在の市川大門町)ことから始まる。また、義光の館跡といわれる逸見郷一帯で、後に大八幡、熱郡、多麿の三庄に分かれたという。清光の居城も八ヶ岳山麓に近い谷戸城で、近くに大八幡庄の起源となった八幡宮の古祠(こし)がある。従って甲斐武田源氏との深いつながりを連想させる。更に三田新庄の上村は秋山氏の所領であり、文明五年(一四七三)上村朝日城主である源朝臣小笠原親次が畑杭山八幡宮と岡山新宮を秋山村禰宜に売却の記録があるので、白木町の地が中世、甲斐源氏と深いつながりがあったために八幡宮が多くなったのかも知れない。古代の神社名については不明な点が多い。井原の町は三篠川と志路谷を東流する栄堂川が井原盆地の中央部で合流し南下、途中白木町小越では東川とも合流し南に流れ太田川の本流に注ぐ。川の合流点は深い淵となり、井原では隠居淵と呼ばれ川舟の船着場があった。『ふるさといばらの探訪』によれば、井原の八幡神社の祭神は帯中津毘古命、息長帯比売命、品陀和気命、多気理毘売命、多岐津毘古命、市寸島毘売命の六神で、応神天皇と両親及び宗像三神が祭られている。

(東京リース株式会社・顧問)




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