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広島県の新羅神社
井原市の高山八幡(新宮神社)については白木町に住む竹内等(ひさし)氏から教えてもらったところによると、「白木山(八八九m)には白木山神社があるが、大正末期から昭和の始め頃、地元で宮を建てようということで建立した」とのことであり、白木山の名前の由来は、二年程前に亡くなった元町長で歴史家でもあったナガイさんという方に二十年程前に師事したが、この方から「白木山には熊笹が茂っており、その笹に花が咲き、笹の葉が白くなったことによることから名が付いた」と聞いたことがあるという。白木山は「ししらしぶ」とも呼ばれているといい、昭和六十三年には約八千万年前の中世代白亜紀の淡水に住むカイエビの化石が発見されている。激しい噴火が一段落した後に湖ができて土砂が堆積し、カイエビが増えた。しばらくして再び盛んになった噴火で湖は埋まったのであろう(昭和六十三年四月二十日・中国新聞)といわれる。この町には古代の歴史が残っていないので明確には判らないが、私は白木町と新羅とは係りがあったのではないかと考えている。広島市東区の小松泰長さんという方から手紙と『神代雑感』という本を贈っていただいた。手紙には「今春、亡義父が戦前書き残した原稿を『神代雑感』として上梓いたしましたが、その中で広島県高田郡白木と新羅の国の関係について触れております。亡義父の追善供養の気持ちから自家出版したものです・・義父の方は伊藤整の従兄弟に当たる方であったようです」と書かれていた。『神代雑感』は約四〇〇ページにのぼる大著である。出雲風土記、国引神話について「この文は海上の叙景にあらずして陸上の紀行文である。・・水臣奴命は出雲より陰陽の分岐点を越え、大麻、畑、大薄(おおすすき)等の地を経て、白木の前(みさき)に到り、神宝を奉持して、葛(つづら)、来女木(くめぎ)などの地を過ぎ、江ノ川より河船により悠々と出雲に還り杵築宮に遷されたり、葛、来女木などは白木山の北方の地名である。また高志(こし)とは高田郡南部の地名にて白木山東麓なり。高天原こそ白木山であり、瓊々杵尊の天の磐座放ち給いしも此の地なり。八俣遠呂智の大蛇の背に生えたりという蘿(かつら)・檜(ひのき)・椙(すぎ)・柾(まさ)などは白木山の東方にある地名を称し、怪物の潜伏せし場所は今の高田郡南部地方なるべし・・」と述べている。非常に難解な文章であるが、志羅岐は白木山であると断じているところは、明快である。私の感想からすれば、やはり新羅と係りがあったために白木山や白木の地名が残っているのではないかと思う。現在の広島市は太田川の下流が作り出した沖積地であり、現在の広島市街地部は総て広島湾の北部海面であり、瀬戸内海の海につながっていた。古代に瀬戸内海を航海してきた人々が最初に住みついた場所は、太田川上流の漢弁郷(可部町)や三篠川流域の山間の白木町となっている地域であって、白木町は、いわば歴史の中にある地である。 五、白神社について 現在の広島市の中心地、太田川の沖積地には白神社がある。広島県教育委員会に所属している石嶋さんから『社記』を送っていただいた。宮司は宗像紀道氏である。九州の宗像氏と係りがあるのであろうか。社記には貴重な広島の地図が載っている。十四世紀のものである。元中四年(一三八七)のものであるが、これを見ると、広島湾が大きく入り込み、海岸線が現在の安佐南区の武田銀山城の近くまで入り込んでいることが判る。そして、湾内には多くの島が点在している様子が判る。白紙島、二保島、比治山などの島々が点在していた。 白神社は「白神」社と呼ぶ。白神社は広島湾に太田川の砂洲の一つ、海中の岩塊上に既にその縁起が生じており、往時の岩塊が今なお都市の中央部に現存している。神社の確実な創建時代は定め難いが、天正十七年(一五八九)、毛利氏が太田川三角洲上に新規築城着工より以前から祀られていたことは明らかとされている。現在の広島市街地部はすべて広島湾の北部海面であり、二保島、比治山、宇品島、江波島等が湾内の島々として点在していた。この島々と陸地部との間の海中に隠顕礁が存在し、一部は露礁となって海上に現れていた。舟行には危険な水域であるため、舟人たちがいつの頃か、岩上に標識の意味で白紙等を掲げ、更に海路安全を願って小祠を建てたのが起源とされている。当時既に白神明神と呼ばれ、天文三年(一五三四)に出身不詳の時盛なる人が岩上に小祠を建立したとする伝承も残っている。・・時盛なる人は、大友氏にも大内氏の系譜中にも該当者はいない。その後、毛利氏が広島入城後の文禄三年(一五九四)、輝元は社殿を寄進建立、城下の総氏神と定められ、境内には国泰寺を有していた・・白い神を掲げたとする伝承は多分に象徴的な意味があり、海中の岩上に白い神を掲げたのでは長持ちができない。・・白いという言葉にオリジナルがあるようである。・・白木に白紙を付した場面もあったのかも知れない。・・白神神社の本殿、拝殿は、正確に南北線上に建っている。一つの説明として、創建当時、人々は北辰(北極星)信仰を起点としたのではないかと思える。北辰を崇める思想は中国から本邦に伝来した。・・現在の祭神は記録によれば、慶長十一年(一六〇六)に当時の白神社神主内田土佐忠久が京に上り、吉田宗家に白神明神の社号を請願した際、加賀国白山姫神社の祭神菊理姫神の勧請を得たとある。現祭神はこのときから祀られたものであり、それ以前の祭神は未詳である。・・祭神は天御中主(あめのみなかぬし)神、伊那那伎、伊那那美神等であるが、白山比(ひめ)を祭る白山信仰は新羅白(しら)山から出た呼称であり、泰澄が朝鮮の巫女、菊理姫(白山貴女)を奉斎した(七一七)のがその始まりといわれており、やはり新羅系の神である。 六、呉の亀山神社 広島県は女神を祭る神社が多い。厳島神社の祭神は、市杵(いちき)島姫命、思心(たごり)姫命、湍津姫命であり、白神神社は菊理姫である。呉市にある亀山神社も比売許曽神社の祭神と同じ姫神である。 垂仁帝の御代伽羅国の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)という王子が追いかけてきたため、摂津の難波に逃れ、次いで豊後の姫島に上陸して比売語曽の神となったと日本書紀に記述されている。この伝承は、朝鮮半島から難波に至る古代渡来人の航路を示していると思われる。豊国と難波の前後関係は別として、古代の朝鮮半島から渡来の経路は対馬海峡を渡り儺(な)ノ津(博多)に上陸した後、東の田川郡香春(かわら)(新羅国の神という辛国息長大姫大目命を祭神とする香春神社がある)に至り、そこから大分県(豊前の国)の国東半島の沖、周防灘にある姫島に至り、その後に瀬戸内海を東航し、大阪(難波)に至る。この経路は古代渡来人の航行の路を示している。地図を開けば、姫島と広島県の呉は防予諸島、芸予諸島を伝われば容易に到達できることが判る。広島駅からJR呉線に乗れば快速で三十分くらいで呉市に着くが、車窓から見る広島湾の景色は実に美しい。島々が連なり、瀬戸内海と同じ感覚である。従って、豊前の姫島から音戸の瀬戸、そして呉に至ることは容易に理解し得る。亀山神社(旧称八幡宮、亀崎神社)・通称小和田八幡宮・所在地・白木町市川字桧山・JR志和口駅の北西約二〇〇m。祭神・品陀和気命・帯中津日子命、息長帯日売命、相殿神・天照皇大神、須佐之男命、市寸島日売命、大物主之命、少名毘古那神・弥都波能売神。境内は広い。例祭十月第三日曜日。本殿三間社流れ造り。神社は道路から結構登った高台にある。道路脇に大きな石柱が二本建っており大きな〆縄が懸けられている。舗装された坂道の参道が森の中へ通じている。途中、小さな石柱が何本かあり、丘の麓まで登るとそこからは石段が中央と両脇に三区画に分かれて続いている。両側は林で雑草も沢山はえている。 (東京リース株式会社・顧問)
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