三井寺 連載
ホーム サイトマップ

新羅神社考
三井寺について

ピックアップ

名宝の紹介

教義の紹介

花ごよみ

連載
浪漫紀行・三井寺
いのりの原景
新羅神社考
21世紀の図書館


法要行事

拝観案内

販売

お知らせ

お問い合せ

 
広島県の新羅神社

石段の上に大きな石造りの明神鳥居が見える。石の扁額も架かっている。石段の脇の雑草の中に石造りの大きな灯篭が台の上に建っている二mくらいある。その背後に二頭の狛犬が置かれてある。その背後に社殿がある。鳥居の扁額の文字は風化されて、消えているので、神社名がわからない。拝殿の中に寄進の際の札があり、神社名が書かれているので、当社が亀山神社であることがわかる。亀山神社社殿 亀山神社社殿 札には「亀山神社御宝前奉寄進金幣一昭和四七年正月元旦広島市白木町大字市川和田福一市」とあった。もう一枚河野という姓の名の札が掲げてある。社殿は荒れた感じで、屋根や柱などは余り手入れされていない様子であった。本殿は大きく朱色の屋根で、唐派風の向拝付・三間社流れ造りで組高覧もついた建物、屋根は両端が照り屋根のような形で、かつては、りっぱな建物を想像させる。森の中にひっそりと鎮まっている。平成六年発行の「広島県神社誌」に記載の神楽殿や神輿社は平成一二年に既になくなっていた。神社発行の亀山神社の由緒書は二部あり、『略記』によれば「当社は帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀(ちゅうあい)天皇)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)(神功(じんぐう)皇后)、品陀和気命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)の三柱を主祭神として祀る古社で、「八幡さん」と呼ばれ親しみ敬われ、家内安全、商売繁盛を始め学問、安産、交通安全、厄除等の神様として崇敬を集めている。創建年代は不詳だが、呉宮原村字亀山(現在の入船記念館の所)の地への御鎮座は、文武(もんむ)天皇大宝三年(七〇三)八月中旬と伝えられている。この頃の社号は「大屋津比売(おおやつひめ)神社」「鈴音宮(すずおとのみや)」「比売島(ひめじま)神社」(大分県姫島の神が、天武天皇白鳳八年・六七九、栃原村甲手山に天降り給ひ後、亀山にご遷座との古伝あり)等と称され、後「大帯比売(おおたらし)神社」「八幡宮」(九世紀以降か)更に「皇城宮(こうじょうぐう)」(寛政十一年・一七九九に奉献)現存の燈籠にこの社号が残る(現在でも用いられ、この燈籠にもある日月の神紋は文明年間の十五世紀よりと云われ、八幡宮の神紋としては例の少ないものであると云われている)と称され、明治維新の際「亀山神社」と改称される。呉鎮守府設置の折、入舟山より明治二十三年五月、現在地に移る。また『亀山神社御由緒畧記』にもほぼ同様のことが書かれている。「主神の三神以外に相殿に高御産霊命外八神を奉斎せる古社にして創立年代詳らかならずと雖も本社所蔵の古文書によれば、当時筑紫宇佐島より豊後姫島に御遷座。人皇四十代天武帝の御宇白鳳八年姫島より安芸国栃原村甲手山に天降り給ふ。・・文武帝の御宇・・亀山(素は入船山と称せしも御遷座の時亀山と名付く)の地に鎮座せり。古来、社号を皇城宮または大屋津比売神社、大帯比売神社、比売志麻神社、鈴音宮八幡宮と称し・・当社は古来衆庶の崇敬篤く、数多くの神社社領を有し宮殿の規模雄大にして祭事賑盛を極め屡々貴人有志の参拝奉賽せらるる者甚少なからず。・・平清盛公安芸守たりし時・・厚く報賽せられしという。・・国主毛利氏長州に国替えに際し氏子中の重なる者百余名随従せしを以て爾来社運衰退・・。呉鎮守府開庁以来歴代司令長官並に海軍所轄長は着任報告祈願に必ず参拝……。呉諸官庁大会社の幹部並に氏子にまで右慣習が・・実行されている・・」呉市入船山記念館発行の『いりふね山』には「古老ノ説ニ、当社ハ栃原村甲手山より亀山に天降鎮給、故ニ昔ハ栃原の里民産神の祭礼ト云テ、毎年八月十五日当社へ参拝致シケル。然ル所元文三戌午年故有テ栃原村甲手山エ社建立致し、・・今紫式部ノ仮縁起ニ見エテ昔ハ勝景ノ地勢トゾ・・。境内社・金山神社(祭神・金山毘古神)須賀社(祭神・大穴牟遅神)稲生社(祭神・宇迦之御魂神)竃神社(祭神・奥津日子、奥津売神)貴船社(祭神・高城入毘売神、龗神)客人社(祭神・豊石窓(とよいわまど)神、櫛石窓神・・)・・」そして、春祭りが五月に行われた記録が記載されている。『呉市史』にも同様の内容が記されているが、当神社は呉郷惣鎮守亀山皇城宮となっている。亀山神社の神は、いずれの資料でも豊後国東の姫島から遷座された神であると記載されている。姫島の神は比売語曽神社の比売語曽神(姫社(ひめこそ))赤留比売命も同一神と思われるが、天日槍の妻姫許曽(ひめこぞ)の神でもあると考えられるが、大屋津比売(素盞鳴命の子神)、大帯比売(息長帯日売命)比売志麻(姫島神の意か)などの姫を祭る神社であったものか、応神天皇と結びつけたのではあるまいか。いずれにしても、天武天皇といい、天日槍の妻といい、新羅との関係の深いことは明らかであろう。先程の「いりふね山」にも、由緒について、「縁起ニ曰、当社筑紫宇佐島ヨリ豊後国姫島エ御遷座、人王四十代天武帝ノ御宇白鳳八年姫島ヨリ安芸国安芸郡栃原村甲手山天降給、自夫年経四十二代文武帝御宇大宝三初発卯年秋八月中旬宮原村亀山に御遷座・・」とある。広島県西部の安芸地方は阿岐といわれ、呉地方には弥生遺跡は乏しいが、昭和地区(焼山、苗代)・郷原地区からは弥生土器が出土している。後に「船木郷」が置かれることになる呉の照葉樹の森を生業の場としていた山民集団は、湿地帯を湿田に変えて稲作を行うようになっていった。一方、呉湾沿海地域島嶼部(とうしょうぶ)は奈良、平安時代に「安満(あま)(=海・海部)郷」と呼ばれ、漁業・製塩そして舟運を主な生業としていた。やがて、大和国家によって海部(あまべ)に編成され安あずみのむらじ曇連氏によって統括された。情島の横穴式古墳、入船山、吉浦、麗女(うるめ)島、警国屋などから出土したと伝えられる須恵器は横穴式古墳が祭祀遺跡であったことを推測させる。蒲刈島の製塩遺跡・倉橋島東岸の古墳・祭祀遺跡などと深い関係を持つ海民集団の残したものである。大化改新の後、船木郷は呉地域の山林地帯を舞台に主として、造船用材(榑(くれ))の伐採、製材を生業とする山民を編成した。八世紀には政府はしばしば安芸国に遣唐使船の建造を命じている(呉市史編纂室『呉のあゆみ』)。


七、安芸国と素戔嗚尊

現在の広島県は東部地方が旧備後国である。備後も含めた安芸国には古代神話、特に素戔嗚尊に係る伝承や神社が多い。この東部地方を流れている江の川の流域には素戔嗚尊を祀る神社が非常に多い。 廣島県の北西・島根県との県境に位置する大朝町に源流をもつ川があり、この川は日本海と太平洋の両海に注いでいる。島根県の石見地方では江(ごう)の川であり、 広島県に入ると(備後)の「江(え)の川」は神之瀬川や西城川などを合流し三次市で分流し、そのまま南にながれ、高田郡吉田町(京都祇園社の社領地)を流れる江の川と東南に流れる馬洗川と上下川に分かれている。 上下川は甲奴郡・甲奴町から上下町にはいると上下町の北部から流れてくる上下川と合流し芦田川となり、更に南にある府中市、新市町を流れ、福山市中を通過して福山港に注ぐ。燧灘である。鞆の浦はこの下流の町である。 安芸国は『記』によれば「伊邪那美神(いざなみのかみ)は出雲国と伯伎国(ははきのくに)(鳥取県の一部)との堺の比婆(ひば)の山に葬りまつりき」と記載しているが、この県境は現実には島根県と広島県である。 比婆山と伊邪那美神の御陵があるのは広島県・安芸国の比婆郡西城町である。比婆山には熊野神社もある。更に、『紀』の神代の条に、一書(第二)にある「素戔嗚尊が、天から安芸の江の川のほとりにお降りになった。

(東京リース株式会社・顧問)




「新羅神社考」に戻る
「連載」に戻る

Copyright (C) 2002 Miidera (Onjoji). All Rights Reserved.