三井寺 連載
ホーム サイトマップ

新羅神社考
三井寺について

ピックアップ

名宝の紹介

教義の紹介

花ごよみ

連載
浪漫紀行・三井寺
いのりの原景
新羅神社考
21世紀の図書館


法要行事

拝観案内

販売

お知らせ

お問い合せ

 
広島県の新羅神社

そこに神がおられ、脚摩手摩(あしなづてなづ)という・・(出雲神話と同様の内容)」とあるのは、三次市で分流した江の川(安芸国では、可愛川(えのかわ)と呼ばれるが可愛川に多冶比から流れる多冶比川が合流する地点の高田郡吉田町(安芸国吉田庄は京都祇園社の社領地)に出雲と同じ素戔嗚尊神話が伝わる清(すが)神社がある。郡山の山麓である。
清神社扁額
清神社扁額
神社の名称は須佐之男命がこの地に居つかれて「吾が心清清し」と申されたという紀の神代の条の故事にちなんだものである(『社記』)という。しかし、この「清清し」といわれた地は通常は出雲の須賀の地(須我社・須賀神社)とされるが当地にも同じような伝承があったということであろう。郡山の山麓には、琴平神社、難波神社、貴船神社、荒神社、天神社などがある。八岐太蛇退治の伝承もある。可愛川は広島の市内を流れ、広島湾に注いでいる。 江の川は出雲の石見から瀬戸内海まで通じているので、この川に沿って日本海(北海)側から瀬戸内海側に文化が運ばれたであろう。逆もいい得るが。いずれにしても氏族や文化の交流があったであろう。この地にも素戔嗚尊の降臨伝承があるということは、この地方も吉備国の彼方で、大和の国からは備後国や安芸国も出雲と同様な異国として見られていたのかもしれない。
清神社
清神社
武塔天神の扁額
武塔天神の扁額
①素戔嗚尊と疫隈の社 一方の上下川に沿った素戔嗚尊を祀る神社には安芸とは別の伝承が残っている。素盞嗚尊は武塔天神ともいわれ「蘇民将来(そみんしょうらい)」の逸話をもっている。即ち素盞嗚尊は「疫の神」→「疫病を追い払う」神であるという。高田市の東の三次市は備後国である。三次市で東に分れる江川水系に属する上下(じょうげ)川(上下町で流の方向が変わる)に沿った甲奴郡・甲奴(こうぬ)町の小童(ひち)(京都祇園社の旧社領地)には「小童祇園社」といわれた「須佐神社」(旧称牛頭天王社・祭神は須佐之男命。境内社・小童神社の祭神は足名権(あしなづち)命、手名権命)がある。 この神社には「牛頭天王は一羽の白い鳩に導かれて竜宮へ行きそこで頗梨采(はりさい)女と結ばれて八人の王子をもうけた」「異形の姿をした牛頭天王が、中国、朝鮮の諸国を巡行した後に日本に帰り備後の国疫隅(えずみ)という所へ着いた・・」(蘇民将来説話)などの伝承がある。龍宮伝説と仏教が混合した伝承である。 『須佐神社縁起』には「光仁天皇の時代(七七四)に天下に疫病が流行した時、この地に小さい童が現れ、我は邪毒鬼神(病気の神)本地妙見菩薩なり、この地は須佐之男命(牛頭天皇)鎮座の地であったが今は祀っていない。再び祀れば伝染病は鎮まるであろう」との宣託を受け人々が神を鎮めたという。 また、当社は『三代実録』によれば「天照真良建雄神(あまてらすますらたておがみ)」と記されている。須佐之男命のことである。「須佐神社」の大祭は小童の祇園祭りといわれ、氏子でない矢野地区(上下町)の人々が中心になって行われる。矢野から小童へ運ばれた神具が垰(たお)地区の神儀宿に運ばれた後、神儀団が「須佐神社」に到着、その後お旅所の「武塔社」に二泊して還御する。この神儀の最後は大神輿(一・三トン)の神幸である(この神輿は一つの社とされ櫛稲田姫命を祀る)がこれは「大昔にスサノオという神さんが矢野から小童へきた」との伝承に基づくことによるという。小童は少女稲田姫といわれているので須佐之男命が櫛稲田姫の所へやって来たという意味であろう。(小童の「須佐神社」に係る伝承と祭りについては『小童村誌』『甲奴町誌』『甲奴町誌資料編』による)。小童には須佐神社の裏手に「武塔神社」があり、祭神の武塔天神(たけあらぎあまつかみ:須佐之男命の別名)を祀っているが、この名称の神社は他所には無い珍しい神社である。この神も『備後国風土記』・逸文によっている。小童の捻木(ねじき)遺跡からは竪穴式住居跡が発掘されており、土師器が多く出土、塚ケ迫古墳からは須恵器(坏蓋、坏身など)が発掘され、新羅との係わりを示している(『小童村誌』)。甲奴郡・上下(じょうげ)町にも「合祀神社」(旧須佐神社・祭神・須佐之男命ほか)、「八幡神社」(旧称亀山八幡宮・祭神・素盞嗚尊・誉田別尊・息長帯姫命ほか)、「須佐神社」(旧称・荒神社・須佐之男命ほか)、「矢野八幡神社」(旧称舟山八幡宮・播磨の四郷明田の新羅神社と同じ祭神を祀っているが、誉田別尊、息長帯姫命、須佐之男命ほか)、「清(せい)神社」旧の「清龍大明神」(須佐之男命)などがある。隣の甲奴郡・総領町には「須佐神社」や「蘇羅比古(そらひこ)神社」(祭神は彦火火出見命)がある。
②穴ノ海を囲む疫隈の神社 更に下流の新市町の須佐神社がある。『新市町史』には上古の備後沿岸推測図が記載されているが、備後国の南部の地域は瀬戸内海が深く入り込んでおり、複雑な地形の穴ノ海ができていた。現在の福山市は大きく分裂しており、穴ノ海を囲むように北に吉備穴国と吉備品遅国があり、安那郡の東奥に延びる湾は駅家郷まで、海の西側の品冶郡には品冶郷や駅家郷、神田郷などが見える。戸手村も海岸に見える。海の東には笠臣国の半島(岬)があり、そこは深津郡で、東から大阪郷、萩原郷、岬の先端に中海郷などが見られる。
疫隅の社殿
武塔天神の社殿
現在の福山市は南の沼隈郡とその周囲が大きな島となり、しかも上下二つに分かれ、南には現在の田島、沼隈郡の分岐する地点には赤坂郷と見える。島は上下合わせて沼隈郡となっている。府中市の辺りまで海が侵入しており、海面の高さは現在より数十m高かった。新市町の辺りで、五十〜百mの高さであった。そして、この辺りは品冶郡で、古の品遅国、誉津別皇子の御名代、後に吉備品遅国と称した。新市町は有用な地下資源に恵まれ、黄銅鉱、黄鉄鉱などをはじめ、亜鉛も含まれていたようである。また、当地区には古代遺跡が豊富で縄文時代の福山湾岸の貝塚では浜貝塚、大門貝塚などがあり、大分県姫島の黒輝夷石製の石鏃が出土している。神辺町御領遺跡では竪穴住居跡が見られる。芦田川流域では銅鏡、銅鏃が見つかっており、鉄器も弥生時代中期以降の城山遺跡、福山市・石鎚権現遺跡などから鉄刀子などが出土している。また、瀬戸内海を取り巻く地域にあった高地性集落は海の貝を運んで食料にしていたので、弥生人は山の上に住みながらも海とのつながりがつよかった理由の一つである。古墳時代の遺跡も多く、新市町で二一七ヶ所の遺跡がみつかっている。横穴式石室であるが、墳形は不明なものが多い。更に、新市町には神社が多く、『新市町史』に記載の神社は百十六社ある。素戔嗚尊が多く祀られている。新市町戸手にある素盞嗚神社(旧称牛頭天王社、祇園社、通称天王社)の祭神は素盞嗚尊、稲田姫命、八王子命。
(東京リース株式会社・顧問)




「新羅神社考」に戻る
「連載」に戻る

Copyright (C) 2002 Miidera (Onjoji). All Rights Reserved.