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1.風光明媚な湖南の地 ひとびとが帰路を急ぐ夕暮れ時、琵琶湖に鐘の音が響きわたっていきます。ふと立ち止まると、湖面には風をはらんで走る帆舟の影、対岸には三上の山を望み、寝ぐらへと急ぐ雁の姿。まさに近江八景の地、いにしえより数多の文人墨客を引きつけてやまなかった湖国大津の風景です。江戸時代には東海道五十三次の宿場町として栄えた大津の町も、現在では大きな変貌を遂げましたが、今も昔も変わることなく、ひとびとの感興を深からしめているのが、三井寺の鐘の響きなのです。 2.日本三銘鐘・三井の晩鐘 近江八景「三井の晩鐘」で親しまれている鐘は、古鐘「弁慶の引摺り鐘」の跡継ぎとして慶長7(1602)年、豊臣家による当寺復興の一環として長吏准三宮道澄によって鋳造されました。現在も除夜の鐘の行事をはじめ、大津の町々に荘重な調べを届けている鐘は、音色のよいことで知られ、古来、形の平等院、銘の神護寺ともに「音の三井寺」として日本三銘鐘のひとつにも数えられています。平成8年には環境庁より「残したい日本の音風景百選」にも選ばれました。 総高208・6センチ、口径124センチ、目方は600貫(2,250キログラム)。「弁慶の引摺り鐘」にならって古式をよく伝え重要文化財の鐘楼とともに滋賀県の文化財に指定されています。 3.近江八景と三井の晩鐘 七景は霧にかくれて三井の鐘 三井晩鐘 粟津晴嵐 瀬田夕照 石山秋月矢橋帰帆 唐崎夜雨 堅田落雁 比良暮雪 近江八景は、一説には『江陽日記』の伝える明応9(1500)年8月13日に、近衛政家、尚通父子が佐々木高頼の招請によって近江に滞在中、政家が八景歌を詠まれたのがはじまりとされていますが、現在では、近衛家17代当主、三藐院信尹(1565〜1614年)が、慶長年間頃に中国瀟湘八景にならい琵琶湖周辺の景勝の地を撰んで近江八景を発案したとする説が有力です。 中世以降、藤原摂関家の嫡流である近衛家と当寺の縁は浅かなぬものがあり、一族の中から多くの長吏職を勤めた高僧を輩出しています。たとえば、政家の実弟である道興、増運、尚通の実子に道増、ことに当寺の慶長期再興の立役者で、三井の晩鐘の刻銘を草した長吏准三宮道澄は、近江八景の発案者・信尹の伯父に当たることから、三井寺と近江八景の深い関係を知ることができます。 近衛信尹は、天正5年に元服し、加冠の役をつとめた織田信長から諱の一字を頂いたといわれ、生来、才気煥発、直情奔放の気風があり、その書風は三藐院流といわれ、本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と称されています。 4.近江八景の文芸 古くは西国十四番札所・三井寺の観音さまの御詠歌に と三井寺の鐘が詠われたように江戸時代になると近江八景・三井の晩鐘は、多くの詩歌文芸や書画に描かれてきました。この和歌は、先述の近衛政家が近江に滞在中に詠んだとされるもので、安藤広重(1797年〜1858年)の名作「近江八景」の浮世絵に書かれているものです。
5.除夜の鐘と伝説 三井の晩鐘を撞いて旧年の厄を払い新年の招福を祈願する当寺の除夜の鐘の行事は、琵琶湖の龍神にまつわる伝説に彩られています。ある日、湖畔で子供たちが蛇をいじめているのを見た若者は、蛇を助けてます。その夜、ひとりの美しい女人が若者の家を訪ね一夜の宿を借りますが、次の日も次の日も出ていこうとはせず、やがて二人は夫婦となり子供を身ごもります。妻は「決して中を覗かないよう」言い残し産小屋に籠もりますが、心配になってきた若者は、約束を破って中を覗いてしまいます。ところが中では大蛇がとぐろを巻いて赤子を取り巻いていたのです。気づいた大蛇はしっかりと玉を握りしめた赤子を残してかき消えてしまいました。 残された赤子は握っていた玉をしゃぶりすくすくと育ちますが、やがて、この噂を聞きつけた領主に玉を取り上げられてしまします。湖畔で若者が困り果てていると、琵琶湖から龍が現れ、「わたしはあの日浜辺で助けていただいた蛇です。あの玉はわが子が無事に育つようにとわたしの眼玉を与えたものです。まだ片方の眼玉がありますから差し上げましょう。ただ、わたしは盲目となってしまいますので、わが子の姿を見ることができなくなります。どうか三井寺の鐘を毎日撞いて子供の無事を知らせて下さい。歳の暮れには一年が過ぎたことが分かるように多くの鐘を撞いて下さい。お返しにひとびとに幸運を授けましょう、と頼んだと伝えています。 以来、三井寺では除夜の鐘に際しては、龍神を慰めるため多くの灯明を献じ、龍の目玉にちなんだ目玉餅を供え、108に限らずできるだけ多くの人にできるだけ多く鐘を撞いてもらう特別の儀式が行われています。 6.「三井の晩鐘」刻銘 梵鐘の池の間には、鐘の由来を記した銘が陰刻されています。
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