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霊鐘・弁慶の引き摺り鐘

 その昔、三井寺が延暦寺と争った際、比叡山の荒法師・武蔵坊弁慶が三井寺の梵鐘を奪い、一人で比叡山の山上まで引き摺り上げ、撞いてみると「いのー、いのー」と響いたので、「そんなに三井寺へ帰りたいのか」と谷底へ投げ捨てたと伝えられています。
 三井寺の僧定円が詠んだ「さざ浪や三井の古寺鐘はあれどむかしにかへる音はきこへず」という和歌の通り、この鐘には弁慶が引き摺ったときにできたひび割れや疵跡がいまも残っています。「弁慶の引き摺り鐘」と呼ばれ、弁慶の怪力ぶりを伝える伝説の鐘として、また現在では、三井寺を鎮護する「霊鐘」として大切に奉安されています。


霊鐘・弁慶の引き摺り鐘(重要文化財・奈良時代)  霊鐘・弁慶の引き摺り鐘(重要文化財・奈良時代)


伝説・弁慶の引摺り鐘

 かつて当寺では、霊鐘の伝説のことなど、大津の俚言のまま地元の古老によって参詣の人びと説き聞かされていました。ここでは、かつての大津弁の名調子をに記して、むかしのよすがとします。

 えー、この鐘は、承平年間に田原藤太秀郷というお方がご寄附になったんで、秀郷がどうしてこの鐘を手においれやしたかと言いますと、まるでお伽話のようですが口碑に伝わっておりますのでお話をしておりますが、承平元年から5年までの頃、秀郷は大津に住んでおりまして、ある日、草津へ行こうとしやはりまして、瀬田の橋を渡りやしたら、橋の上に大きな蛇が目をむいて、角をはやしてこわい顔してた。それに秀郷は少しもこわがらずに、その蛇をまたげてサッサと東へ行かれると、むこうの方に1人の爺さんがヒョイと立って、われは竜神といって、この橋の下に住むこと数千年になるが、未だかつてあんたみたいな度胸の据わったお方は知らん、どうか頼みを聞いてくれんかと言われるので、秀郷は何か知らんが頼みなら聞いてあげようと言われますと、竜宮という水の中の結構な御殿へ誘うて行って、酒や肴を出してねぎろうたが、夜分の夜半の頃になると、いま仇が来ましたから討ってくれと言う、仇って何や知らん、と思うて見やはりますと、大きなムカデですから、秀郷は常に弓や矢を携えておられたと見えまして、早速矢を2筋放たれましたが、2本とも当っても通らなんだ、3本目の矢の時に、かの老人がムカデは唾を嫌うからと言ったので、唾を塗って射やはりますと、それがムカデの左の目と眉の間から咽喉へ突き刺って、1本の矢で大きなムカデが斃れました。

 蛇がこわがるくらいのムカデですから、どれ程大きさがあったかと言いますと、近江富士とたたえる丸い格好のよい山を7巻半まいて瀬田の橋へ頭を出した。これを引き延ばすと10里からあるのでっせ。そんな大きなムカデが出ているのに、誰が7巻まいているやら8巻まいているやら、こおうて教える者はごわへんやろ。それに7巻半まいていたというのは何故じゃろ。あんた方でも、1つ巻いても8巻とおっしゃる。近江富士を1つまくのにチョット足らんと瀬田の橋へ頭出した。それで7巻半というたかも知れまへん。それにしても延長六里からないと、とどかん大きなムカデがたった1本の矢で斃れた。  そんなら水の中の竜神が陸のムカデを何故嫌ろうたかというと、蛇の子に乙姫様という美しいお姫さんがあった。それをムカデが取りに来るもんですから恐れていたのが、タッタ一本の矢で斃れたのを見て、非常に喜んで御礼に十の宝物をくれやした中にこの鐘があったので、大津に住居していやはったもんですから、この寺へご寄附になったんです。
 
 これをここにつって3百年程撞いておりましたら、弁慶といえるお方は、紀州熊野の別当職弁戒の息子で、播州の書写山で修行して、比叡山西塔の武蔵坊という寺にいやはりました当時、比叡山には僧侶が3千人いやはるし、当寺には850人よりいやはりまへなんだ、それに同じ天台の本山同士ですから、座主の争いが起り、弁慶が隊長になって征めて来て、そこらを焼いたりクダイたりして、お恥しい事ですが、この鐘を分捕って行かはりました。その時、山や坂を3里半引摺ったので、鐘のむこうべらがズーッと摺り切れています。そして大講堂の前につって摺いて見やはりましたら、鐘の音色は出ませずに、ただイノーと響いた。比叡山でイノーと鳴ったら三井寺へ帰りたい鐘や、帰りたけりゃ帰れ、と怒って谷間へ投げ捨てた。その時割れたのがこちらの方で、ズーッとヒビがいってます。

 その後、380年捨ててあったのを争いが仲直りしてから貰うて帰った鐘です。帰っては来ましたがヒビがいっておりますから、つらずに台の上にのせて置きましたら、ある日気がふれた一人のお女中が、女人禁制のこの山へはいって来て、この鐘は結構な鐘や、鐘には鏡の質が入っているものや、どうかこの鐘で鏡だけを載かせて欲しいと一心に念じて、鏡のぐるりをなで廻わりやしたら、ポカッ!と鏡の形が取れました。そちらのイボイボの中に取れた所がありまっしゃろ。それが天文18年の盆の15日、太閣さんの14の歳でありました。それからは盆の15日だけには女人禁制のこの山へ御女中方に入ってこれを見て懺悔して貰う事が許されるようになったんです。明治の御維新からは何れも女人禁制はないようになったんです。弁慶は強い人でした。どうぞヒビのいった所や鏡のとれた所、イボイボがチビレた所を、よう見て帰っておくれやっしゃ。



 と語られる伝説は以上のようなものですが、また、この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象が生じたといいます。良くないことがあるときには鐘が汗をかき、撞いてもならず、また良いことがあるときには自然になり出したといいます。
 南北朝の建武の争乱の時には、寺では略奪を恐れ鐘を地中に埋めたところ、自ら鳴り響き、これによって足利尊氏軍が勝利を得たといわれるなど、まさに霊鐘というにふさわしい様々な不思議なことがらを今日に伝えています。
 『園城寺古記』という戦国時代の記録には、文禄元(1592)年7月に鐘がならなくなってしまい寺に何か悪いことが起こるのではないかと心配した僧侶たちは、様々な祈祷をおこなったところ翌8月になってようやく音が出るようになった。この話しを聞いた太閤豊臣秀吉は、これを奇特として鐘楼を新たに造るように当時の大津城主であった新庄直頼に命じた話しが伝えられています。しかしながら、この鐘楼はついに完成することなく、3年後の文禄4年には秀吉から当寺は闕所の憂き目にあうことになります。


霊鐘・弁慶の引き摺り鐘(重要文化財・奈良時代)  霊鐘・弁慶の引き摺り鐘(重要文化財・奈良時代)






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