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〔今回のテーマ〕ファッション、モード 毎日ブランドを着ている人も、ブランドに興味ない人も読んでおきたいファッショントモードについての厳選三冊
1).
デズモンド・モリスという人によると、スカートの丈は、景気が悪いとロングになり、景気が良いとミニスカート
が流行するそうである。彼は実に1921年から1977年までの毎年の代表的モードをもとに女性のスカートの
丈と株式相場との相関関係を分析して、かくなる<法則>を発見した。その理由は、
経済の活況が女性の行動を活発にさせ、男性に対する大胆な誘惑を感じるようになるからというのだが、
はたしてそうか。
平成不況のどん底といわれる現在の日本、女子高生のルーズソックスに象徴されたブルセラ、
援助交際等々、こうしためまぐるしく変化する社会現象の坩堝と化した世相を前にして、
わたしたちは、なすすべもなく巻き込まれるか、あるいは呆然と立ちすくむか、または、
流行は流行なるが故に世の中の表層だけのことで人間の本質は不変であると考えて無視してかかるかの
いずれしかないように思われる。
しかし、少なくとも20世紀という時代は、人間の本質や文化の普遍性といったものが実は存在しない、
ベンヤミンがはやくも19世紀のパリをみて、その都市空間を資本主義の夢をはらんだ「ファンタスマゴリー」
(魔術幻灯)であると喝破したように、商品、広告、消費、市場、流行、モードはまさに<近代>という
社会が産み落とした当のものであることを明らかにしてきた。
われわれはボードリヤールを待つまでもなく資本主義が世界中を巻き込んでひた走る<近代>というシステムが
生んだ問題との対決を、たとえそれが「終わりなき闘争」であろうとも、避けて通ることはできないのである。
なぜか。
2).
科学技術が未曾有の発展をみた20世紀は、
同時に思想や芸術の分野で「言語」と「性」(ジェンダー・セクシュアリティー)を<発見>した人類史上画期的
な時代でもあった。ソシュールにはじまる構造言語学やフェミニズムは今や限られた学問分野の専門家や「女」
だけの問題ではなく、互いにクロスオーバーしながらさまざまな分野、それも学問の世界を越えて一般社会に
大きな影響を及ぼしている。いずれにしても、わたしたちには、ほんとうの自分、かけがえのないわたしが
見えにくくなっている。わたしたちは、この世に生まれて死ぬまで社会的文化的役割、たとえば、
男や女として、子供らしく、学生らしく、サラリーマン、夫あるいは妻らしく、父親、母親らしく、
老人は年寄りらしく、といった枠組みのなかで自分を作り上げている。そこから逸脱することは異端として
禁じられている。一方、わたしたちにはこうした人間像に還元し尽くすことのできない自分だけのわたしの
存在を感じている。そう、わたしたちは自分自身の矛盾を生きている。
こうした現代のわたしたちにとって、ファッションやモードのことを考えてみることにどのような意味が
あるのだろうか。ファッションは誰にとっても最も身近なテーマである。何しろみんな服を着ない日は
ないのだから。おしゃれにまったく関心のない人でも川久保玲(コム・デ・ギャルソン)や三宅一生の
ファッションのテーマが、わたしたちが実際に日頃の生活で感じているのと同じ疑問や苛立ちから
生まれてきていることを知るだけでもファッションに対する距離感が今までとは変わってくるはずである。
何しろいきなりソシュール言語学専門書やデリダ、ドゥールズなどの難解な著書を読むのはたいへんだ。
ぼくも哲学科の学生だった頃、はじめて読まされたのがヘーゲルの『精神現象学』で、
これが何がなんのことやらチンプンカンプンだったことを思えば、今回、紹介する三冊は、
ブランド名やデザイナーにまったく予備知識のないひとも、自分が毎日見につけている「衣服」というものに
ついて考えさせられるし、街角で見かけたり、自分の好みのファッションやブランドを今までとは
ひと味ちがった目でみることができるようになる。そして、ほんとうのことを言えば、
難解な哲学書を読むよりもファッションやモードの方が、<近代>という時代を先鋭的に表現しているのであって、
自分が毎日選んでいる服やいいなと思うものについて、なぜ自分がそう感じるのかを振り返って考えてみる
ことの方が、わたしたちの時代を実感することになるのである。
3).
三人の著者はそれぞれファッションの専門家ではない。鷲田氏は哲学者、山田氏はフランス文学・文化の専門家、
柏木氏はデザイン評論家。だからファッションの通時的歴史やブランドなどの個々の知識を期待する人には
向かないけれど、服を着るということ、人間にとって衣服とは何か、ということを考えてみたいという人、
それにベンヤミンやバルトの思想に興味のある人にはすこぶる分かりやすい最適書である。
鷲田清一『モードの迷宮』は、「拘束」「隠蔽」「変形」の三つをキーワードにコルセット、ハイヒール、
化粧、指輪やブレスレットなどの装飾品やフェティシズム、エロティシズムまでを射程におさめた日本人の
手になるこの手の著作として唯一本格的かつ刺激的言説に満ちた書となっている。
とりわけ衣服とわたしたちの身体との関係について、まさに「モードの迷宮」の扉を開ける秘匿された
鍵を発見する手がかりが至る所にちりばめられている。
衣服の向う側に裸体という実質を想定してはならない。衣服を剥いでも、現れてくるのはもうひとつの
衣服なのである。衣服は身体という実体の外皮でもなければ、皮膜でもない。
衣服が身体の第二の皮膚なのでなく、身体こそが第二の衣服なのだ。
山田登世子『ファッションの技法』は、著者が大学で行った講義、彼女の学生たちとの対話をもとに
書かれただけあって、学生たちのヴィビットな感性がうまく生かされている。いったい人はなぜ
おしゃれをするのか。わたしたちを左右する流行とはどんな現象なのかを<誘惑>をテーマに
ファッションと身体、性とモードなどの関係を、決して抽象論になることなく、
著者の私的なエピソード、「黒が好き、シャネルは嫌い、コム・デ・ギャルソンとソニア・リキエルは
どちらも好き」といった個人的なテイストを交えて、毎日をファッションに気を使って<誘惑>の
生活をおくっている人からの新しいファッション論となっている。
わたしたちは鏡の中の自分のイメージを気にする。より美しく、よりカッコよいイメージになりたいと
気をくばる。それが「ファッションの技法」ということだ。けれども、その鏡には、実は見えないものが
映っている。《今日》という時間が。明日にはもうなくなってしまうそのエフェメラの時間に参加したくて、
わたしたちはモードにとらわれてゆく。
柏木博『ファッションの20世紀』は、わたしたちが、あるファッションを選び身にまとうことには、
文化に内在する目に見えない権力(フーコー的な意味で)が関わっており、それは<近代>という
社会システムが生んだ固有の問題と同根であるという視点から、ベンヤミンの『バサージュ論』を下敷きに
十九世紀の消費都市パリに焦点を当てオートクチュールの誕生から論をはじめる。
著者によればオートクチュールは、十九世紀までの貴族に代わって新たに登場した階層である
産業ブルジョワジーのアイデンティティを可視化したものであり、その後、
二回の世界大戦によって登場した「国民服」「標準服」が、こうした新しい階層社会を階級・性別を問わず
あらゆる人々を国家経済の単位として社会の中に組み込んでゆく近代システム社会へと一気に組み換える
役割を果たし、さらには戦後のアメリカン・ルック、カウンター・カルチャー、ミニスカート、
DCブランドへと至る消費社会を引き起こす条件を生み出したと論じる。
ポール・ポワレ、マドレーヌ・ヴィオネからクレア・マッカーデル、川久保玲、三宅一生の意味を問いつつ、
氏の専門とするデザインや建築、ロックのような大衆文化まで、わたしたちが肯定するとも否定するとも
判断がつかない状況、システムへの闘争とシステムからの逃走の終わりなきディレンマの中にある
現代を描き出している。
なかでもおもしろいのは、コム・デ・ギャルソンに対する山田氏との微妙な評価のずれであろう。
またラルフローレン、三宅一生、DCブランド現象に関する氏の解説は目からウロコの鋭さがある。
わたしたちは他者との”差異(違い)”を欲望しつつ、その結果、他者の欲望するものを欲望するがゆえに、
他者と”同一化”する。差異と同一化という両極へと、わたしたちの欲望は、メビウスの輪のように奇妙な
形にねじれて引き裂かれてしまうのである。
さあ、これで最初のスカートの謎について知ることもできるし、これからのあなたのブランド選びにも
ひと味違ったおもしろさと自己主張を盛り込むことができる。
たとえそれが他人とは少しでも違っていたいという差異化願望の現れであるとしても。
(園城寺執事 福家俊彦)
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