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![]() 〔今回のテーマ〕家族、性差 結婚している人も、これから結婚しようと考えている人も、これからの家族について考える原理扁
1).
家族って何だろう。空気のように当たり前のことに思われていた家族の解体の危機が叫ばれて久しい。
これは「男は仕事、女は家族」という性別役割を骨子としてきた家族の在り方が現実に変化し揺らぎつつあることを如実に示している。
これからの家族、男と女の関係はどうなるのだろうか。
こうした問題にもっとも刺激的な仕事をしてきた人に上野千鶴子がいる。
彼女が80年代フェミニズムの旗手であったことは言わずもがなのことであるが、
確かにその起爆力は相当なものがあった。
西洋哲学の伝統的な方法しか知らなかったぼくには、文化人類学や記号論、
構造主義を武器にマルクスなどへ向かう彼女の手法は、一風変わったというの止まらず、
こっちのやっていることがバカらしくなるほどのインパクトがあった。
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86年に出版された『女という快楽』は彼女のフェミニズムの原点となった著書である。
本書では、家族や恋愛(対幻想)、主婦と母性など様々な事柄が扱われているが、
彼女が<近代・家族>に照準をあわせてきたことは周知のことで、
つまるところ<近代>という時代は、その称揚されてきたヒューマニズムや平等主義にしても、
そこで言われる「人間」は男・女の性差を隠蔽し抽象化された「人間」に他ならないということ。
産業化社会の中で五体満足で働くことのできる成人男性を暗黙の内に「人間」の基準にし、
企業戦士という言葉があったように、まさに戦士としては劣った女性や老人、子供、
身体障害者などを「人間」から除外してきた。
また仕事の世界を公的領域とみなし、家庭を私的領域とする分離が同時進行した。
この過程で男女平等という言葉とは裏腹に内実は「男は仕事、女は家庭」という非対称な家族が自然とされる
伝統的家族観が成立した。
2).
こうした時代にあって男・女という自明視されてきた「性」から生物学的性とジェンダー、
セクシュアリティを折出したことはフェミニズムの理論的功績のひとつであった。
ジェンダーは歴史的文化的に構成された性差のことで、ある時代のある特定の文化を持つ社会で、
そこに生きる男には男らしい、女には女らしい行動様式を規制し、それに適った思想を内面化するよう
強いるある種の権力関係によって社会組織化された性規範のことである。
ジェンダー概念を導入することによって「男は仕事、女は家庭」といった性別役割も、
自然な男女の区分に基づくものではなく、従って人類に普遍的でも本来的でもなく、
歴史的文化的につくられた区分であるということが解明された。
また「男の子は青色・女の子は赤色」といった色彩感覚、「ぼく・わたし」、
手紙の書き留め文言「敬具・かしこ」といった言葉にまでジェンダーは存在する。
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セクシュアリティは、まさに性愛に関することで、男の女への能動的な欲望が自然かつ正常なもので、
女のそれは受動的であるとみなす男中心のセクシュアリティ観への批判が込められている。
この分野の最も衝撃的な書となったのがリュース・イリガライの『ひとつではない女の性』である。
彼女の主張は、題名が示す通り女の欲望が多様であること、ひとつの事実であっても男からみた現実と
女からみた現実とではまったく異なっているのだというメッセージであろう。
これは昨今問題となっている従軍慰安婦に関して当時の当事者であっても男側と女側とではまったく経験
された現実が異なっているとうい事実を示せば足りるであろう。
従って、セクシュアリティの問題はレイプやセクハラなどの性暴力、エイズ患者に顕著な同性愛者などへの
差別、はては性産業など様々な問題への射程ともっている。そして彼女は男に語りかける。
女の言うことを聴くには他の耳が必要だろう。常に織りなされている《他の意味》、
常に言葉と口づけしあうが、言葉に定着したり固着したりしないように、常に言葉から身を振り払っている
《他の意味》として聴く耳が。
3).
上野千鶴子については「男女を呪縛していた性別意識からの離脱を誘惑的にささやきかける
一種の啓蒙主義」(大越愛子『フェミニズム入門』)という批判はあるにせよ、
『女という快楽』という書物は『スカートの下の劇場』と共に確かにその挑発的ネーミングと
相まって女性を「女とは何か」といった息苦しい自己探求の桎梏から解放し、
自己の欲望に忠実に生きるしなやかな女性へと変容を遂げる根拠を提供した。
それは、フェミニズムを女性だけの問題から男と女の関係性の問題へと方向転換をはかったことである。
女たちは家族や生殖からの解放ではなく、抑圧的でない性愛、抑圧的でない生殖、
抑圧的でない家族を求めている。女たちは「解放された性」を求めて「性の実験」をつづけるだろうし、
逆に性を問題としないような女性解放運動は、ニセモノでありつづけるだろう。
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『近代家族の成立と終焉』(94年)は、彼女の著書『家父長制と資本制』の後をうけて書かれた<近代>と
<家族>に関する彼女のひとつの到達点である、と同時にわれわれにこれからの家族のあり方、
男女の関係について考えることを促す問題提起の書である。
彼女の「家族の危機」についての回答は明快である。それによれば十九世紀末にも同じように
「家族の危機」が叫ばれたが現実には家族は解体することなく実際には家族のあり方が変わったにすぎない。
変化の先が見えないことだけが、人々を不安にされおびえさせる。問題の核心は、
家族が目前で見知らぬ姿に変貌しつつある現実をどう捉えるかである。
当事者が手探りで自分の現実を表現しようとするその言葉そのもののなかに、
新しい現実を記述する新しい言葉は存在する。必要なのはただ耳を傾けることだ。
それに「客観的」な観察をおしつけたとたん、そのリアリティはこわれる。
「客観性」とは、古い現実を記述する古い物語の別名にすぎない。
彼女の仕事は、いつに現実に表現を与え、人に伝え、考える想像力をもつ勇気を与えたことである。
彼女のスマートでシャープな文体、自らの「性」を扱って一定の距離を保ったバランス感覚と
練られた文章スタイルは、何よりもフェミニズムに懐疑的な男に安心感を与えたのである。
たとえそれが彼女の挑戦にまんまと乗せられたのだとしても。
(園城寺執事 福家俊彦)
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