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〔今回のテーマ〕写真、写真論 近代的意識が無意識を目覚めさせたように、写真にも無意識が映し出され ることがある。二十世紀は「写真の世紀」でもあったのである。
1).
やはり、この人のことから始めたい。去る二月、大阪へ中島省三さんの写真展を見に出かけた。
中島さんは現在、自ら信楽焼で制作したピンホールカメラで撮影を行っている。
この機械は文字通り陶器製の本体にフィルムフォルダーを装着したもので、レンズはもと
よりファインダーもない。従って、フレーミングや露光時間は専ら経験と勘に頼ることになる。
こうして現像されてきたものをノートリミングで、しかも今回の展覧では印画紙ではなく、
プリンターで紙に出力したものが展示されていた。
その中の一点、琵琶湖湖畔の近代的に整備された公園、そこに立ち並ぶ太陽光発電のパネルが設置された外灯、
超高層ビル、背景には流れを止めた雲。
即座に感じたのは、一九七〇年代後半以降のニュー・カラー、ことにロバート・アダムス、ルイス・ボルツなど
ニュー・トポグラフィクスと呼ばれる写真家たちとの近親性である。
彼らは自然破壊によって変貌していく風景を、
あたかも地誌学(トポグラフィクス)の調査測量のように感情移入を廃し、
脱意味化、脱芸術化したニュートラルな視線で撮影をおこなった。
そこにはアンセル・アダムスに代表される崇高な自然と人間、
自然と都市といった二項対立がもはや存立できなくなった世界が映し出されていた。
中島さんは、従来から琵琶湖の環境に関心を寄せ、映画作品などを通じて現代社会に明確な批判を行ってきた。
ところが、最近のピンホールカメラによる写真には、
社会への批判や自然でさえ「作品」として矩形の枠(フレーム)に収まるように整序化し、
「意味の世界」へと回収されてしまうことへの拒絶がある。
また、印画紙を棄て、紙に出力されたことによる独特の色調は、
完成したタブローであることを拒否し、未完で途上にあるとの感を強くする。
今回の写真展は、中島さんが写真の人であることをご自身の思い以上に雄弁に物語っている。
大阪からの帰り、車窓を流れ去る景色を眺めながら、世界が人間的尺度を超えて自己増殖を繰り返す現代、
ぼくはパリを撮り続けたアジェの時代との懸隔に眩暈する。
現代の都市と人間の乖離は都市空間から人間の顔を奪ってしまった。
そこでは既にニュートラルな視線など成立し得ないのではないか。
今やぼくらは、無垢な自然に出会うこともないし、自然の破壊に痛みを感じない地点まで来てしまったのではないか。
かくして思考は「風景」と写真の歴史へと漂流していった。
2).
様々なメディアによって様々なイメージが氾濫する現代、シャッターを押せば勝手に写るとみなされている写真は、
空気のように当たり前で透明なものになっている。しかし、写真というものを、
記録のように、もしぼくらがその場にいれば見たであろう光景をそのまま定着したものであると考えるのであれば、
写真など見ても仕方ない。
一八三九年、ダゲールによって写真が本格的に発明されてから、
人間の「見る」という根源的な経験に何が付け加えられたのか。
ぼくにとって写真を見るという経験が何より魅力的なのは、写真がもつ独自の存在構造にある。
さて、今日でも絶大な影響力をもつ写真論と云えばヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』、
ロラン・バルト『明るい部屋』、スーザン・ソンタグ『写真論』であるが、
その他にもジョン・バージャーや日本では多木浩二氏、伊藤俊治氏、飯沢耕太郎氏などの仕事が思い浮かぶ。
西村清和氏『視線の物語・写真の哲学』は、撮る、撮られる、見るといった
「写真行為」全般について簡明に著述された写真原論である。
そこでは空間と時間の両面から写真の存在構造の特異性が分析される。
写真の空間的特異性は、絵画との比較で論じられる。絵画は肉眼の「意識」が捉えるもの、
その文化に固有なものの見方や表現の仕方、即ち共通の世界観なりコードによって規定されたものを
額縁(フレーム)に縁取られた安定した「風景」へと変換する。それに対して、
写真はこうした文化的なバイアスのもとで見逃してしまうディテイルまでも正確に撮しとることから
「意識」の外に広がる無辺の世界、ベンヤミンが「無意識に浸透された空間」と呼んだ世界を現出さすという点にある。
さらに重要な視点は、記憶や映画との比較で述べられる写真の時間構造に関わる。
ぼくらにとって過去とは記憶が把持するものであるが、写真は過去を現在に接続する記憶というものを持たない。
かつてバルトが写真に「垂直の読み」を要求した所以である。
シャッターを切るというふるまいは、現実にあったできごとにそのつどひとつの終局、
ひとつの結末をあたえることである。
写真は時間の流れを裁断する。そこには人間の眼差しでは捉えることのできない別の世界、時間の断面が現れる。
写真は物語や映画のように人間的で連続的な時間に属していないのである。
3).
小林康夫氏『身体と空間』も写真を見ることの意味は、
世界の対象的在り方を破り「作品」へと構成される一歩手前に踏み留まること。
世界を解体しその裂け目を見ることにあると云う。
もはや経験の時間、主体の時間を回復することが不可能なほど孤立し、
断絶し、他者のものであるひとつのイマージュを、あなたのものとして、
あなたのなかにあるものとして、あなたに提示しようとするだろう。
その時である。写真は眼差しから主体を欠落させ、あなたは世界の外にいる。
これこそが写真の根源的な恐怖であり、危険な魅力なのである。
本書はダンス、写真、建築という三つのジャンルが扱われているが、
わずか二七頁に凝縮された「写真経験とは何か」の章は写真論のベストである。
加藤典洋氏『なんだなんだそうだったのか、早く言えよ。』は、『アメリカの影』の著者による写真評論である。
ことにニュー・トポグラフィクスを論じた「風景のおわり」の章では、
これからの写真について衝撃的な指摘がなされている。
サミュエル・ベケットの「想像力は死んだ、想像せよ」という言葉から
瀬尾育生氏が詩人吉岡実氏を論じて「詩は死んだ、詩作せよ」と書いた。写真の世界も同じである。
風景が終わり、写真が死ぬ。そのことを理由に写真を手にし、風景にむかうのが、写真の方法ではないだろうか。
一九八九年、ロバート・アダムスは写真集を出版する。タイトルは『それを故郷とせよ(To Make It Home)』。
ぼくたちは銘記すべきである。風景の終わり、「それを故郷とすること」と。
(園城寺執事 福家俊彦)
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