去年の八月二八日、わが家の黒猫ミイが永眠した。このことを書こうとすると、 最後のとき、横たわったまま、じっと、信頼しきった、あの黄金色の眼が浮かんできて、 いまもパソコンの画面が霞んでくる。

黒猫ミイは野良猫だった。平成二年十一月三日の夕方、 当時両親と同居していた家の裏で隣の人と立ち話をしている時、 真っ黒な子猫がひょいとぼくの肩に乗ってきた。 あまりに突然のことで、その名もそのままミイと呼ばれることになった。

その後、事情があって引っ越すことになり、初めてぼくらは夫婦と子供だけの生活を始めた。 ミイは、まだ小さかった三人の子供たちの成長を横目で見ながら、時には遊び相手ともなり、 家族の一員として生活してきた。その家で暮らし始めたある日のこと、ミイが茶トラの雌猫を連れて帰ってきた。 あわてふためくぼくたち夫婦をよそに子供たちはミイがお嫁さんを連れてきたと喜んだが、 なるほどミイはトラを家の中にまで案内し、あきれるぐらい自然に家族の一員にとけ込ませてしまった。 彼らはわが家を住処として実に幸せそうに共に食べ共に眠った。 やがて、縁の片隅で子供たちが誕生し、ミイは四児の父親になった。 もともと知能、体力共にすぐれ、最後の時まで、 子供たちとその後に加わったわが家の猫たちの信頼すべきリーダーであり続けた。

その日、亡骸を家の裏庭に埋葬した。ぼくは家族にも知らせることなく、 古代の人々が死者を偲んでしたためたという誄（しのびごと）のつもりで哀悼の詞を書いて墓標の下に納めた。

敬愛する詩人・長田弘氏の『ねこに未来はない』は、貧しかった若い詩人が猫好きの奥さんと結婚し、 六畳一間のアパートで「綿菓子みたい」な未来の夢を抱いて仔猫のチイを飼い始めたことから始まります。 ところが、そこは動物を飼えない決まりだったので、部屋に閉じこめられていたチイは、 二人が意を決して外に出したその日のうちにいなくなってしまいます。 次に二人は四軒長屋の一軒に引っ越し、二番目のチイと彼女の生んだクマと暮らしますが、 彼らもある日いなくなってしまいます。 さらに次の猫には、若い二人がはじめてのデートで見た映画の主人公の女の子からとった ジジという名前をつけますが、この「はんぺん」のように綺麗な毛並みのジジも非業の死を遂げてしまいます。 こうして次から次へと愛する猫がいなくなる喪失感を詩人は次のように考えます。

そして、ジジが亡くなって間もなく若い夫婦には子供ができ、この物語はひとまず幕を閉じます。 これから二人は、やがて生まれてくる子供といっしょに新しい物語を生きていくことになるのでしょう。

長田さんのねこ友だちに同じ詩人の吉行理恵さんがいます。彼女は、ＮＨＫ連続テレビ小説でご存じの 吉行あぐり（安久利）さんの一番下のお子さんです。 彼女が十七歳の時、「詩に憑かれたころ、選んで私のところへやってきて、私と無二の親友」なったのが 薬子（くすこ）という雌の斑猫です。名前は彼女が高校の日本史の時間で習った平安時代の女性、 藤原薬子に由来し、「薬子の変」で毒を仰いで自殺した、 その烈しい気性にひかれて名を付けたということです。 彼女は薬子を心の支えに詩作を続け、昭和三八年、二四歳の時に第一詩集『青い部屋』が刊行されます。 ところが、その翌年に薬子は行方不明になってしまいます。

吉行さんは、よく夢を見、それを大切にしている人ですが、 彼女には「萩原朔太郎にあずけた猫」という美しい作品があります。 薬子がいなくなった夜、彼女は夢の中で、着物姿の萩原朔太郎とすれ違い、 その足もとで笑っている薬子に出会います。 そして、彼女は薬子と船で「出発」しようとしますが、薬子は船窓から飛んでいってしまいそうにするので、 仕方なく薬子を置いて出発することにし、預かってくれる人を探すことにしたという夢です。 長田氏は、薬子を失うことは「吉行さんにとってひとつの無垢の季節の終わりを意味するとともに、 新しい出発のためにドアの固い握りをかちりとまわすことでもあったのでした」と書いておられます。

今回紹介する『猫の見る夢』は、薬子の次に著者三十代から四十代にかけて共に暮らした捨て猫、 雲とトンボ、さらに次のバルとの生活を書き留めたエッセイ集です。

そのなかの「雲の想い出」の一節。

昭和五二年、この雲の死をきっかけに書いた小説『小さな貴婦人』で芥川賞を受賞されます。 吉行さんの小説は、都会の片隅で猫との交感を拠り所にひっそりと生きる人間と 無神経で嫌悪感を催させる悪意をもった人間を対置させます。 ほんとうに悪意や邪な欲望を持つのは地球上の生物の中で人間だけではないでしょうか。

これも長田氏の言葉、「吉行さんとその詩とそのねことは、 感情のみえない深い渦巻きのなかで分かちがたくむすばれて」おり、 彼女の紬出す自然で繊細な言葉は、小説でありながら童話、散文詩、 随筆などが渾然となった独自の作風を確立しています。

次に、猫との別れを描いた極めつけ内田百��先生の『ノラや』を紹介しない訳にはいきません。 百�關謳ｶは、言わずと知れた夏目漱石門下として『百鬼園随筆』や『阿房列車』の著者として すでに一家をなしていました。それが昭和三二年、先生六八歳の時、 ふとしたきっかけで飼い始めた野良猫の子、ノラが帰って来なくなったことからこの本は生まれます。

本書は、ノラの失踪と捜索の日々、その後に家に迷い込んできたクルとの暮らしと その死までを描いた文章を集めて一冊に編んだものです。 それにしても、おさめられた文章の雑誌発表の年次を見ると、 先生の死の前年（昭和四五年）まで実に十数年に亘っており、 先生のノラへの思いがいかに深かったかを物語っています。 とりわけノラ失踪後の日数を数えながら「何月何日何曜日、ノラ二九四日」といった 書き出しではじまる日記体の文章に、 著者流儀の随筆を絶妙の筆さばきで挟み込んだ切なくも情愛に満ちた独特の作品となっています。 先生には先に昭和二〇年五月二五日の空襲で麹町の家を焼かれた日々を、 やはり日記体で描いた『東京燒盡』という名作がありますが、 日記体という手法は、その記録性故に、ノラ失踪という事件が先生にとって 如何に由々しき事態であったのかを伝えるに絶大な効果を発揮しています。

ところで、もう晩年にさしかかった大家が、 自ら「一生の悲哀と苦痛を煎じ出して嘗めさせられた様な目を見た」と記すほど、 あるいは戦争で家を焼かれたことに匹敵するほどの悲しみと狼狽をみせるノラとは、 いったい先生にとって如何なる存在であったのでしょうか。

吉行さんは、猫から離れられない理由を「動物は、そのけがれのない生の感覚によって、 すべてのよきものを私の内に目覚めさせてくれた」という画家フランツ・マルクの言葉を引用されています。 すべてのよきものを目覚めさせてくれる、そう、ぼくらにとってもミイは、 長田さんのチイやジジであり、吉行さんの薬子や雲、トンボであり、百�關謳ｶのノラとクルでした。 きっとミイの死は、ぼくら家族にとっても新しい物語のはじまりなのでしょう。 ただ、いま強く思うことは、いつか将来、 ぼくら夫婦がもっと歳をとって自らの来し方を振り返ることがあれば、 きっとミイと共に暮らした九年間が、 ぼくら家族にとって最も幸せな時期であったと思い出されるであろうという確信めいたことです。

ミイよ、安らかにねむっておくれ。