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〔今回のテーマ〕失われた時を求めて(その一) プティット・マドレーヌの味から「失われた時」が目覚め、無意志的記憶が積み重なって大聖堂となる。 二十世紀文学の頂点、プルーストを読む(前編)
1).
筆が重い。昨年の十月二日、わが家の愛猫クリが失踪した。毎日毎日、夕方に家の前で名前を呼べば、
決まったように返事をしながら飛び跳ねるように帰ってきたのに、その日も次の日も、
ついに帰ってくることはなかった。ぼくのなかには途方もない悲しみが石塊のように居座ったまま、
あれから半年が過ぎようとしている。
クリは、わが家で生まれ育った四兄弟のメスで、一日の大半をぼくの部屋の本棚の上で過ごしていた。
小さいときから野良犬に追われて木の上に登ったまま降りられなくなったり、
一週間どこに閉じ込められたのか煎餅のように痩せ衰えてフラフラで帰ってきたりと、
いちばん心配をかけさせたもので、前々から外の道路を横断して近くの小学校に遊びに行くのが車に轢かれないかと心配していたところであった。
あのときは、しばらくぼくが留守をしていた後だけに、あの日の前夜、ぼくの布団に入ってきて、
いつになくべたべたとひっついてきたときのの顔、最後となったあの日の昼、家から出て行くとき、
いってらっしゃいと声をかけたその後ろ姿が目に焼きついたまま、
なんとかどんな姿でも帰ってきてほしかったのに、
まったく何も手に付かず、家にもジッとしていられない、
クリが寝ていた自分の部屋にも入れないといった日々が続いた。
やっとこの頃になって、車に轢かれたのだろうと何度も何度も自分で自分を説得し、
宿痾の如く体内に宿った悲しみを何とか見て見ないすりをすることができるようになったが、
ふとしたとき、例えば、いつものクリの散歩コースであった小学校の裏庭の前を通るとき、
ほかの猫が同じような仕草をするとき、あのしなやかで精妙な体の感触が鮮明に蘇り、
かけがえのないものを失った悲しみが忽然と呼び起こされる。
2).
あの日から二ヶ月程が経って、ようやく日常の心境に戻りつつあるかな、
と思われた頃、やはり今から考えると、まだ頭がどうかしていたとしか考えられないが、
何かに導かれるように手に取ったのが、
マルセル・プルースト(1871〜1922)畢生の大作『失われた時を求めて』であった。
しかし、この小説、二十世紀文学の運命を変えた作品と云われるだけあって、質量ともに空前絶後である。
現在、鈴木道彦氏の新訳が刊行されているが、ぼくは「ちくま文庫」から出ている井上究一郎氏の訳で読んだ。
小説全体は『スワン家のほうへ』から『見出された時』まで全七篇からなり、文庫本十冊、合計五八〇〇頁をこえる大長編である。
死ぬまでには読もうと思っていたものの余程のことがないと途中で挫折しそうで敬遠してきたのもこの分量にある。
それに、何も知らずに読みはじめた人なら、すぐに気付くことだが、普通の小説にあるような筋(ストーリー)がない。
それまでの、即ち十九世紀までの小説、例えばスタンダール『赤と黒』、ユゴー『レ・ミゼラブル』やバルザックの諸作品、
あるいはゲーテなどに代表されるドイツの教養小説のように緊密な構想力によって構築された物語、
主人公を中心に様々な人物が登場し時間の経過にしたがって継起する事件の描写を通じて一つの完結した小説世界を表現する、
いわば大河小説的な長編小説とは大いに異なっている。ましてや今日、
日々量産され消費されているハラハラドキドキのサスペンスや思わず胸をキュンとさせる恋愛を描いた小説とは
対極にある(もちろん、こうした小説の効用も棄てがたいのを認めつつも、長編である必然性をもたないものがあまりにも氾濫しすぎている)。
従って、普通の小説に慣れている人からみれば、この小説のどこが面白いのかと頭をひねるか、
あまりの退屈さにさっさと放り出してしまうのがオチであろう。
それは、クラシック音楽や現代絵画のどこが良いのか分からないといった声と同断である。
確かに、かのアンドレ・ジイドでさえ最初は『スワン家のほうへ』のガリマール社からの出版を断ったぐらいだから、
やはりこの作品には完読を助ける入門書があっても良いように思われる。
なにしろこの本を読み終えた時の味わいの深さは格別なのだから。
3).
そこで最初に挙げておきたいのは、佐々木涼子『ロマネスク誕生』である。
氏は井上究一郎氏を恩師とするプルーストの研究者であるが、この書は決して専門家が書いた研究論文ではない。
文学史上の意義とか作品構造といった知識や解説めいたことも一切ない。
あるのは、自分を駆って文学に向かわせる文学とは、いったい何ものであるのかといった、
人が生きることに関わる最も根源的な問いかけである。それはプルーストと共に人生を歩んでこられた一人の女性が、
プルーストから放射されるエネルギーを全身で受けとめ、
単に知識としてでなく自ら生きるために受け継いだことだけからなっている。
だいたいこうした本は専門家であればあるほど書きにくいものだが、
著者自ら「もし人生に一度しか書けない本があるとしたら、
私にとってこの本はまさしくそれである」と書いておられるように、こういう瑞々しい本は本当に貴重である。
氏は本書で、古い新しいに関係なく良い文学作品だけがもつ生命力、
作品の外見上の変化の底で決して変わることのない「精神の跳躍」としての小説のエネルギー、
それを「ロマネスク」という言葉に託して考えをめぐらす。
あの長い小説を、書かせた力、作品として持ちこたえている力、終わりまで読ませる力、そのエネルギーは何なのだろう。
それがおそらく、私が惜しみつつもとりこぼしたもの、
この小説の一頁一頁に石英砂のように光っていてとらえようのないものにちがいない。
だから、いたるところに散りばめられた生命力の結晶であるキラキラ光る言葉の砂粒を、
一つ一つ丹念に拾い集めることは、読者にとっても楽な仕事ではない。
それが見慣れない新しい種類のものであればいっそうであろう。
しかし、この取っつきにくい小説のもつ違和感、
「越えがたい抵抗感と、しかしそれを乗り越えたときの自己変革にともなう解放感」こそがプルーストが新しく生みだした、
そして決して古びることのない「ロマネスク」にほかならないのである。
4).
プルーストの生きた時代、この小説の舞台となった第二帝政後のフランスは、本格的な大衆消費社会の到来を迎えていた。
海野弘『プルーストの部屋』は、前書とは好対照に、ベル・エポックからドレフュス事件、
第一次世界大戦へと至る時代背景はもとより、あらゆる文化が絢爛と華開いた時代を描き出している。
特に、美術全般に造詣の深い著者ならではのインテリアや建築の様式、ファッションなどにも行き届いた解説がなされている。
また、章立ても小説本編の七篇にそって構成され、文章も簡明で逐語的な読みも的確である。
日本語で読める唯一便利なコメンタリーとなっている。
彼(プルースト)にとって文体スタイルは、
技術でなく、世界をいかに見るかという視像ヴィジョンの問題である。
そして芸術作品こそ、失われた時を見出す唯一の方法なのだ。
書くことは、個々の事物をこえて、そこで見えないものを見えるようにし、
どんな事物にも普遍が特殊と並存することを明らかにすることである。
特殊から普遍に移ることで、私たちは悲しみをこえるのだ。
実際には、訳注とともに本編と並行して読まれることをお勧めする。
5).
かくしてぼくは、プルーストの世界に引き寄せられるように「時」で始まり
「時」で終わるこの長い小説の完(Fin)まで辿り着いた。
クリを失って半年、こんな読みは間違っているのだろうが、
それでも、ぼくにとってクリは、この小説と分かちがたく結びつき、
「失われた時」のなかに遍在しつつ「見出される時」を待っているのである。
(園城寺執事 福家俊彦)
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