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〔今回のテーマ〕黙阿弥と歌舞伎 前編 慶長八年(一六〇三)の出雲の阿国以来、四百年の歴史をもつ歌舞伎。江戸時代を通じて常に文化の中心であった芝居を通じて現代の文化を考える。
1). 「芸術はすべてまったく無用のものなのだ」と『ドリアン・グレイの肖像』の序文を締めくくったオスカー・ワイルドは、そのなかで「道徳的な作品とか不道徳な作品とかいうようなものは存在しない。作品は巧みに書かれているか、巧みに書かれていないかだ。それだけのことである」と書いている。
第百三十回の芥川賞は、最年少記録となる若い女性二人が受賞し、大きな話題となった。出版不況を抱える出版社やマスコミの興味本位の売らんかなの大騒ぎは別にして、金原ひとみ『蛇にピアス』、綿矢りさ『蹴りたい背中』の二受賞作は、たしかに巧く書けた作品である。前者のアイテム「ボディピアスというエキセントリックな題材」(村上龍)が中高年層の理解をはるかに超えていっそう進化していることに驚きを禁じ得ないおじさん世代から、後者の正確丹念に描き出した「高校における異物排除のメカニズム」(池澤夏樹)に共感した、芥川賞などはじめて聞いたという若い世代までが、本を手にとった現象は歓迎すべき事態なのであろう。
この二作を読んで先ず思い浮かんだのは、小型飛行機が着陸地点が見つからずに、もがきながら飛行しているといったイメージであった。ある機は燃料が切れる前に着陸できる地点を探そうとあちこち飛び回り、また、ある機は損傷することを覚悟で無理にでも着陸しようと試みている。
かつて現代人について、「故郷喪失」ということが言われた。その故郷は、自分が疲れ傷ついたときに安らかに自分を受け入れてくれる場所、帰るべき美しきハイマート、それは実在の土地だけでなく、心の、あるいは文化的な故郷の意でもあった。
ところが、彼女たちは、すでに「故郷喪失」が生まれたときから当たり前の環境で育ち、いまやこの言葉だけでは表現しきれない社会のただ中で、やがて大人になろうとしている。それだけに、この二作品をエロスとタナトスの交差する若き生命力の発露であるとひとまずは規定することができるとしても、それだけでは何も言ったことにならない。かつてのように「青春」という言いふるされた明るい言葉で一括りにできない。著者の個性の違い以上に何か「それぞれの若さ」とでも言うしかない、二人の著者がそれぞれが抱え込んでいる若さと救いのない浮遊感が切なくなるほど印象的であった。 2). 歌舞伎について述べるつもりが、なぜ芥川賞の話になったかと言えば、現代の多様化した文化状況と歌舞伎が演劇のみならず浮世絵や俳句、川柳に至るまで何につけ文化芸術の中心的役割を果たした江戸時代の社会との相違に思いが至ったからである。 月も朧に白魚の、篝もかすむ春の空、冷たい風もほろ酔いに、心持ちよくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽、塒へ帰る川端で、棹の滴か濡れ手で泡、思いがけなく手に入る百両…
こいつァ春から縁起がいいわぇ。 ご存じ「三人吉三」(「三人吉三廓初買」)大川端の場。振袖姿もあでやかなお嬢吉三の聞かせぜりふである。春の夜、隅田川の川面には、白魚舟のいさり火もおぼろ月夜にかすみ…いかにも江戸風情に満ちた情景のもと妖艶で官能的なお嬢吉三が朗々とうたい上げる名せりふは、黙阿弥得意の修辞技巧をこらしたツラネである。くだんのお嬢吉三は、幕末から明治にかけて真女形として艶麗水もしたたるが如しと評された岩井粂三郎(後の八代目岩井半四郎)が演じ、大当たりをとった。
ぼくは、この歌舞伎史上もっとも人口に膾炙したせりふを「ご存じ」と書いたが、これは年輩の方にだけ言えることで、現代の若者にとっては歌舞伎に特別の興味をもつ者以外には無縁なものとなっている。かつては子供から大人まであらゆる階層の人々に知られていた曽我兄弟やお軽勘平、切られ与三などの歌舞伎のヒット作は、講談や落語あるいはファッション、歌舞音曲に至るまで取り入れられ、世の中のすみずみまで浸透していた。仏教思想が日本文化に絶対的な影響を及ぼしたのと同様、歌舞伎から発信された文化は、決して勉強して覚えるものではなく、まさに人々の「血肉と化した文化」であった。 ところが、現代社会は明治から始まった近代化の波により、それまで仏教や歌舞伎が占めていた文化的ヘゲモニーは雲散霧消し、それに取って代わるものもないまま誰もが共有していた文化的着陸地点を喪失してしまった。 ここでは、江戸文化の中心を担った歌舞伎に着目し、ことに「江戸から東京」という明治維新を挟んで近世の終焉と近代の原点に立ち会い、まさに「一身にして二世」を生きた二代目河竹新七こと後の黙阿弥(一八一六〜九二)に焦点を当ててみたい。
3). 幕末から明治期を代表する歌舞伎作者・河竹黙阿弥は、文化十三年(一八一六)、江戸のど真ん中、日本橋式部小路で湯屋の株の売買、質屋などを営む越前屋勘兵衛の長男として生まれた。本名吉村芳三郎。家督を弟に譲り、五世鶴屋南北に師事。生世話物・白浪物の名作を次々に生み出した。「月も朧…」にみる七五調の音楽的な台詞、情緒的な世界の描写にすぐれ、江戸歌舞伎の集大成者と称されている。
ことに嘉永七年(一八五四)の「忍ぶの惣太」からはじまった名優、四代目市川小団次との名コンビは、「鼠小僧」(安政四年)、「十六夜清心」(安政六年)と矢継ぎ早に大当たりを連発し、慶応二年(一八六六)の「鋳掛け松」の小団次の死まで続いた。この期間に黙阿弥の代表作の大半が世に出ており、白浪作者と呼ばれる由縁でもある。
明治になると新時代の風潮を表す散切物や活歴物にも多くの作品を残した。明治十四年(一八八一)、引退を披露し、河竹新七改め黙阿弥を名乗る。明治二十六年(一八九三)、脳溢血のために死去。享年七十八歳であった。
坪内逍遙が、黙阿弥を「明治の近松、我国のシェークスピア」と称讃したことは有名な話である。「江戸歌舞伎の大問屋」、「最後の狂言作者」とも呼ばれるにふさわしく三百六十種類に及ぶ黙阿弥作品は、現在も上演頻度が最も多く、今なお多くの人々に親しまれ、舞台に生き続けている。
4). 小林恭二『悪への招待状』は、著者自らが現代の渋谷に遊ぶ若者二人を引き連れて「三人吉三」が初演された安政七年(一八六〇)正月の江戸は浅草猿若町、通称芝居町の市村座へタイムスリップし、「幕末・黙阿弥歌舞伎の愉しみ」を味わってもらおうという趣向の著作である。読者も芝居の筋を追いながら随所に幕末の風俗、時代背景、歌舞伎をめぐる諸事情などの懇切丁寧な解説を聞きながら当時の芝居見物のバーチャル体験ができるような仕掛けになっている。
何よりの特徴は、普通の歌舞伎入門書では解説されることのない当時の着物に関する情報やお弁当など芝居見物に付随する様々な事柄にまで徹底的にこだわっている点である。
例えば、いざ芝居見物に出かけるため連れの女性に紺の唐桟縞の小袖、それも当時流行していた路考茶という渋い茶色が入ったものを選んだり、あるいは、お嬢吉三の衣裳が梅の花の友禅の入った黒振袖で「八百屋お七」を意味する「丸に封じ文」という紋が入っていること。
また、昼食の場面では、江戸一の料理茶屋・八百善のお弁当が登場し、江戸料理の一品一品を説明するくだり。最初は一峯斎作の金蒔絵の硯蓋に盛られた松風鯛(鯛の蒲鉾)、嶺岡豆腐、それに何と白魚の目刺しなど、次の織部の手付皿にのった和え物では管牛蒡と軸蓮草の胡麻よごし。管牛蒡とはゴボウの芯の部分を抜いたもの、軸蓮草はほうれん草の軸部分のこと。こうした説明を聞くと、当時の料理が、現代のものとは比較にならないくらい大変手間のかかった洗練されたものであったことが実感でき興味が尽きない。
5). さて、著者は、幕末の頽廃した雰囲気を色濃く表現した黙阿弥芝居の特質を「運命悲劇」として捉える。「不条理なる運命が、登場人物たちのあらゆるあがきを無視して、彼らを不可抗力的にカタストロフへ落とし込んでゆく、という劇構造を、「運命悲劇」と呼びます。運命悲劇としては、ギリシア悲劇が有名ですが、黙阿弥芝居もその典型例」である。ところで、江戸時代の人々にとって、この世には人間の思惑を越えた理法が存在し、我が身にふりかかる運命に対して受け身たらざるをえなかった。その根底にあったのは仏教思想に由来する「因果の法」であり、個々人が運命を受け入れる合理的解釈としては輪廻や諦念であった。
ところが、すでに「輪廻を疑い始めた幕末江戸の市民にとって、因果に発する身に覚えのない災厄は、不条理以外の何物でもなかった。」この不条理感を著者は「因果の闇」と呼び、「この不条理感をこれでもかと言わんばかりに強調したのが黙阿弥」芝居の特質だとしている。
幕末の江戸人をとらえたのは、「因果の闇」だったのです。とりあえずは因果思想を立てていますが、そこにあるのは共感ではなく、むしろ憎悪です。この因果の闇という思想にこそ、幕末という時代の大特徴があり、ひいては明治維新という未曾有の革命を、ほとんど無血で行った下地になっているように思えるのです。
かくして本書は、歌舞伎のみならず幕末を迎えた江戸社会のあらゆる要素、ファッションや美術や工芸品、料理にまで目が行き届いており、読者はそれぞれの興味に応じて、さらに調べてみたくなる本当の意味での入門書となっている。(次号につづく)
(園城寺執事 福家俊彦)
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